少年
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)堀川保吉《ほりかわやすきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二千年|前《ぜん》の今月今日
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+粫のつくり」、第3水準1−94−40]
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一 クリスマス
昨年のクリスマスの午後、堀川保吉《ほりかわやすきち》は須田町《すだちょう》の角《かど》から新橋行《しんばしゆき》の乗合自働車に乗った。彼の席だけはあったものの、自働車の中は不相変《あいかわらず》身動きさえ出来ぬ満員である。のみならず震災後の東京の道路は自働車を躍《おど》らすことも一通りではない。保吉はきょうもふだんの通り、ポケットに入れてある本を出した。が、鍛冶町《かじちょう》へも来ないうちにとうとう読書だけは断念した。この中でも本を読もうと云うのは奇蹟《きせき》を行うのと同じことである。奇蹟は彼の職業ではない。美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者《しょうじゃ》なるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を行っている。
宣教師は何ごとも忘れたように小さい横文字の本を読みつづけている。年はもう五十を越しているのであろう、鉄縁《てつぶち》のパンス・ネエをかけた、鶏のように顔の赤い、短い頬鬚《ほおひげ》のある仏蘭西《フランス》人である。保吉は横目を使いながら、ちょっとその本を覗《のぞ》きこんだ、Essai sur les ……あとは何だか判然しない。しかし内容はともかくも、紙の黄ばんだ、活字の細《こま》かい、とうてい新聞を読むようには読めそうもない代物《しろもの》である。
保吉はこの宣教師に軽い敵意を感じたまま、ぼんやり空想に耽《ふけ》り出した。――大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安を護《まも》っている。勿論《もちろん》異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使は鍔《つば》の広い帽子の上に、逆立《さかだ》ちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白《めじろ》押しに並んだ五六人も乗客の顔を見廻しながら、天国の常談《じょうだん》を云い合っている。おや、一人の小天使は耳
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