々|挿絵《さしえ》を彩《いろど》ることだった。彼はこの「浦島太郎」にも早速彩色を加えることにした。「浦島太郎」は一冊の中《うち》に十《とお》ばかりの挿絵を含んでいる。彼はまず浦島太郎の竜宮《りゅうぐう》を去るの図を彩《いろど》りはじめた。竜宮は緑の屋根瓦に赤い柱のある宮殿である。乙姫《おとひめ》は――彼はちょっと考えた後《のち》、乙姫もやはり衣裳だけは一面に赤い色を塗ることにした。浦島太郎は考えずとも好《い》い、漁夫の着物は濃い藍色《あいいろ》、腰蓑《こしみの》は薄い黄色《きいろ》である。ただ細い釣竿《つりざお》にずっと黄色をなするのは存外《ぞんがい》彼にはむずかしかった。蓑亀《みのがめ》も毛だけを緑に塗るのは中々《なかなか》なまやさしい仕事ではない。最後に海は代赭色である。バケツの錆《さび》に似た代赭色である。――保吉はこう云う色彩の調和に芸術家らしい満足を感じた。殊に乙姫《おとひめ》や浦島太郎《うらしまたろう》の顔へ薄赤い色を加えたのは頗《すこぶ》る生動《せいどう》の趣《おもむき》でも伝えたもののように信じていた。
保吉は※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》母のところへ彼の作品を見せに行った。何か縫《ぬい》ものをしていた母は老眼鏡の額越《ひたいご》しに挿絵の彩色へ目を移した。彼は当然母の口から褒《ほ》め言葉の出るのを予期していた。しかし母はこの彩色にも彼ほど感心しないらしかった。
「海の色は可笑《おか》しいねえ。なぜ青い色に塗らなかったの?」
「だって海はこう云う色なんだもの。」
「代赭色《たいしゃいろ》の海なんぞあるものかね。」
「大森の海は代赭色じゃないの?」
「大森の海だってまっ青《さお》だあね。」
「ううん、ちょうどこんな色をしていた。」
母は彼の強情《ごうじょう》さ加減に驚嘆を交《まじ》えた微笑《びしょう》を洩《も》らした。が、どんなに説明しても、――いや、癇癪《かんしゃく》を起して彼の「浦島太郎」を引き裂《さ》いた後《あと》さえ、この疑う余地のない代赭色の海だけは信じなかった。……「海」の話はこれだけである。もっとも今日《こんにち》の保吉は話の体裁《ていさい》を整えるために、もっと小説の結末らしい結末をつけることも困難ではない。たとえば話を終る前に、こう云う数行《すうぎょう》をつけ加えるのである。――「保吉は母との問答の中にも
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