繧ノは戯曲にすると云ふのは、ゆうべの刺身をぬたにしたのと同じ非難を招かないであらうか? 少くともぬたになる筈のものをうつかり刺身につくつたのと同じ不明を示す筈である。――と云ふ考へかたも出来ないことはない。
 けれども同一の題材を二つに使はれぬと云ふ道理はない。いや、小説から戯曲にせずとも、小説から小説にもなる訳である。たとへば久米正雄などはたつた一つの失恋を無数の小説にしてゐるではないか?(と云ふのは久米を嘲るのではない。無数の失恋をしてゐる癖にたつた一つの小説も書けぬ新時代の青年に比べれば、数等久米は見上げたものである。)況《いはん》や小説から戯曲にするのは恥辱でも何でもない筈である。勿論どちらか一方の傑出することもあるかも知れない。しかしそれは同一の作者に傑作もあれば悪作もあると少しも変りはない理窟である。
 尤も論者はかう云ふに違ひない。それは小説にした場合と異つた見地に立つた上、戯曲に書直した場合だけである。さもなければ如何に割引きしても、不明の非難だけは免れないであらう。――この説は一応尤もである。成程《なるほど》戯曲にした結果、小説よりも傑出したとすれば、過去の不明は咎《
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