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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白襷隊《しろだすきたい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十八|珊《サンチ》
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(例)※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]
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一 白襷隊
明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊の白襷隊《しろだすきたい》は、松樹山《しょうじゅざん》の補備砲台《ほびほうだい》を奪取するために、九十三高地《くじゅうさんこうち》の北麓《ほくろく》を出発した。
路《みち》は山陰《やまかげ》に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇《うすやみ》の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷《しろだすき》ばかり仄《ほのめ》かせながら、静かに靴《くつ》を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数《くちかず》の少い、沈んだ顔色《かおいろ》をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂《やまとだましい》の力、二つには酒の力だった。
しばらく行進を続けた後《のち》、隊は石の多い山陰《やまかげ》から、風当りの強い河原《かわら》へ出た。
「おい、後《うしろ》を見ろ。」
紙屋だったと云う田口《たぐち》一等卒《いっとうそつ》は、同じ中隊から選抜された、これは大工《だいく》だったと云う、堀尾《ほりお》一等卒に話しかけた。
「みんなこっちへ敬礼しているぜ。」
堀尾一等卒は振り返った。なるほどそう云われて見ると、黒々《くろぐろ》と盛《も》り上った高地の上には、聯隊長始め何人かの将校たちが、やや赤らんだ空を後《うしろ》に、この死地に向う一隊の士卒へ、最後の敬礼を送っていた。
「どうだい? 大したものじゃないか? 白襷隊《しろだすきたい》になるのも名誉だな。」
「何が名誉だ?」
堀尾一等卒は苦々《にがにが》しそうに、肩の上の銃を揺《ゆす》り上げた。
「こちとらはみんな死《しに》に行くのだぜ。して見ればあれは××××××××××××××そうって云うのだ。こんな安上《やすあが》りな事はなかろうじゃねえか?」
「それはいけない。そんな事を云っては×××すまない。」
「べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保《しゅほ》の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」
田口一等卒は口を噤《つぐ》んだ。それは酒気さえ帯びていれば、皮肉な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣《な》れているからだった。しかし堀尾一等卒は、執拗《しつよう》にまだ話し続けた。
「それは敬礼で買うとは云わねえ。やれ×××××とか、やれ×××××だとか、いろんな勿体《もったい》をつけやがるだろう。だがそんな事は嘘《うそ》っ八《ぱち》だ。なあ、兄弟。そうじゃねえか?」
堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師《きょうし》だったと云う、おとなしい江木《えぎ》上等兵《じょうとうへい》だった。が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云う訣《わけ》か、急に噛《か》みつきそうな権幕《けんまく》を見せた。そうして酒臭い相手の顔へ、悪辣《あくらつ》な返答を抛《ほう》りつけた。
「莫迦野郎《ばかやろう》! おれたちは死ぬのが役目じゃないか?」
その時もう白襷隊は、河原の向うへ上っていた。そこには泥を塗《ぬ》り固めた、支那人の民家が七八軒、ひっそりと暁《あかつき》を迎えている、――その家々の屋根の上には、石油色に襞《ひだ》をなぞった、寒い茶褐色の松樹山《しょうじゅざん》が、目の前に迫って見えるのだった。隊はこの村を離れると、四列側面の隊形を解いた。のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這《はらば》いながら、じりじり敵前へ向う事になった。
勿論《もちろん》江木《えぎ》上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」――そう云う堀尾《ほりお》一等卒の言葉は、同時にまた彼の腹の底だった。しかし口数の少い彼は、じっとその考えを持ちこたえていた。それだけに、一層戦友の言葉は、ちょうど傷痕《きずあと》にでも触《ふ》れられたような、腹立たしい悲しみを与えたのだった。彼は凍《こご》えついた交通路を、獣《けもの》のように這い続けながら、戦争と云う事を考えたり、死と云う事を考えたりした。が、そう云う考えからは、寸毫《すんごう》の光明も得られなかった。死は×××××にしても、所詮《しょせん》は呪《のろ》うべき怪物だった。戦争は、――彼はほとんど戦争は、罪悪と云う気さえしなかった。罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、×××××××出来る点があった。しかし×××××××××××××ほかならなかった。しかも彼は、――いや、彼ばかりでもない。各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊《しろだすきたい》は、その大なる×××にも、厭《いや》でも死ななければならないのだった。……
「来た。来た。お前はどこの聯隊《れんたい》だ?」
江木上等兵はあたりを見た。隊はいつか松樹山の麓《ふもと》の、集合地へ着いているのだった。そこにはもうカアキイ服に、古めかしい襷《たすき》をあやどった、各師団の兵が集まっている、――彼に声をかけたのも、そう云う連中の一人だった。その兵は石に腰をかけながら、うっすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰《にきび》をつぶしていた。
「第×聯隊だ。」
「パン聯隊だな。」
江木上等兵は暗い顔をしたまま、何ともその冗談《じょうだん》に答えなかった。
何時間かの後《のち》、この歩兵陣地の上には、もう彼我《ひが》の砲弾が、凄《すさ》まじい唸《うな》りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯《りかとん》の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙《つちけむり》を揚げた。その土煙の舞い上《あが》る合間《あいま》に、薄紫の光が迸《ほどばし》るのも、昼だけに、一層悲壮だった。しかし二千人の白襷隊《しろだすきたい》は、こう云う砲撃の中に機《き》を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった。また恐怖に挫《ひし》がれないためには、出来るだけ陽気に振舞《ふるま》うほか、仕様のない事も事実だった。
「べらぼうに撃ちやがるな。」
堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子《ひょうし》に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂《さ》いた。彼は思わず首を縮《ちぢ》めながら、砂埃《すなほこり》の立つのを避けるためか、手巾《ハンカチ》に鼻を掩《おお》っていた、田口《たぐち》一等卒に声をかけた。
「今のは二十八珊《にじゅうはっサンチ》だぜ。」
田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾《ハンカチ》をおさめた。それは彼が出征する時、馴染《なじみ》の芸者に貰って来た、縁《ふち》に繍《ぬい》のある手巾《ハンカチ》だった。
「音が違うな、二十八|珊《サンチ》は。――」
田口一等卒はこう云うと、狼狽《ろうばい》したように姿勢を正した。同時に大勢《おおぜい》の兵たちも、声のない号令《ごうれい》でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚《ばくりょう》を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。
「こら、騒いではいかん。騒ぐではない。」
将軍は陣地を見渡しながら、やや錆《さび》のある声を伝えた。
「こう云う狭隘《きょうあい》な所だから、敬礼も何もせなくとも好《よ》い。お前達は何聯隊の白襷隊《しろだすきたい》じゃ?」
田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるのを感じた。その眼はほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足るものだった。
「はい。歩兵第×聯隊であります。」
「そうか。大元気《おおげんき》にやってくれ。」
将軍は彼の手を握った。それから堀尾《ほりお》一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸《の》べながら、もう一度同じ事を繰返《くりかえ》した。
「お前も大元気にやってくれ。」
こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化《こうか》したように、直立不動の姿勢になった。幅の広い肩、大きな手、頬骨《ほおぼね》の高い赭《あか》ら顔。――そう云う彼の特色は、少くともこの老将軍には、帝国軍人の模範《もはん》らしい、好印象を与えた容子《ようす》だった。将軍はそこに立ち止まったまま、熱心になお話し続けた。
「今打っている砲台があるな。今夜お前たちはあの砲台を、こっちの物にしてしまうのじゃ。そうすると予備隊は、お前たちの行った跡《あと》から、あの界隈《かいわい》の砲台をみんな手に入れてしまうのじゃ。何でも一遍《いっぺん》にあの砲台へ、飛びつく心にならなければいかん。――」
そう云う内に将軍の声には、いつか多少戯曲的な、感激の調子がはいって来た。
「好《よ》いか? 決して途中に立ち止まって、射撃なぞをするじゃないぞ。五尺の体を砲弾だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ。どうか、しっかりやってくれ。」
将軍は「しっかり」の意味を伝えるように、堀尾一等卒の手を握った。そうしてそこを通り過ぎた。
「嬉しくもねえな。――」
堀尾一等卒は狡猾《こうかつ》そうに、将軍の跡《あと》を見送りながら、田口一等卒へ目交《めくば》せをした。
「え、おい。あんな爺《じい》さんに手を握られたのじゃ。」
田口一等卒は苦笑《くしょう》した。それを見るとどう云う訣《わけ》か、堀尾一等卒の心の中《うち》には、何かに済まない気が起った。と同時に相手の苦笑が、面憎《つらにく》いような心もちにもなった。そこへ江木《えぎ》上等兵が、突然横合いから声をかけた。
「どうだい、握手で××××のは?」
「いけねえ。いけねえ。人真似をしちゃ。」
今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはいられなかった。
「××れると思うから腹が立つのだ。おれは捨ててやると思っている。」
江木上等兵がこう云うと、田口一等卒も口を出した。
「そうだ。みんな御国《おくに》のために捨てる命だ。」
「おれは何のためだか知らないが、ただ捨ててやるつもりなのだ。×××××××でも向けられて見ろ。何でも持って行けと云う気になるだろう。」
江木上等兵の眉《まゆ》の間《あいだ》には、薄暗い興奮が動いていた。
「ちょうどあんな心もちだ。強盗は金さえ巻き上げれば、×××××××云いはしまい。が、おれたちはどっち道《みち》死ぬのだ。×××××××××××××××××××××たのだ。どうせ死なずにすまないのなら、綺麗《きれい》に×××やった方が好いじゃないか?」
こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚《おんこう》な戦友に対する、侮蔑《ぶべつ》の光が加わって来た。「何だ、命を捨てるくらい?」――彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。そうして今夜は人後に落ちず、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心した。……
その夜《よ》の八時何分か過ぎ、手擲弾《しゅてきだん》に中《あた》った江木上等兵は、全身|黒焦《くろこげ》になったまま、松樹山《しょうじゅざん》の山腹に倒れていた。そこへ白襷《しろだすき》の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鉄条網《てつじょうもう》の中を走って来た。彼は戦友の屍骸《しがい》を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大声に笑い出した。大声に、――実際その哄笑《こうしょう》の声は、烈しい敵味方の銃火の中に、気味の悪い反響を喚《よ》び起した。
「万歳! 日本《にっぽん》万歳! 悪魔降伏。怨敵《おんてき》退散《たいさん》。第×聯隊万歳! 万歳! 万々歳!」
彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破った、手擲弾の爆発にも頓着《とんちゃく》せず、続けざまにこう絶叫していた
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