は苦笑《くしょう》した。それを見るとどう云う訣《わけ》か、堀尾一等卒の心の中《うち》には、何かに済まない気が起った。と同時に相手の苦笑が、面憎《つらにく》いような心もちにもなった。そこへ江木《えぎ》上等兵が、突然横合いから声をかけた。
「どうだい、握手で××××のは?」
「いけねえ。いけねえ。人真似をしちゃ。」
 今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはいられなかった。
「××れると思うから腹が立つのだ。おれは捨ててやると思っている。」
 江木上等兵がこう云うと、田口一等卒も口を出した。
「そうだ。みんな御国《おくに》のために捨てる命だ。」
「おれは何のためだか知らないが、ただ捨ててやるつもりなのだ。×××××××でも向けられて見ろ。何でも持って行けと云う気になるだろう。」
 江木上等兵の眉《まゆ》の間《あいだ》には、薄暗い興奮が動いていた。
「ちょうどあんな心もちだ。強盗は金さえ巻き上げれば、×××××××云いはしまい。が、おれたちはどっち道《みち》死ぬのだ。×××××××××××××××××××××たのだ。どうせ死なずにすまないのなら、綺麗《きれい》に×××やった方が好いじゃないか?」
 こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚《おんこう》な戦友に対する、侮蔑《ぶべつ》の光が加わって来た。「何だ、命を捨てるくらい?」――彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。そうして今夜は人後に落ちず、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心した。……
 その夜《よ》の八時何分か過ぎ、手擲弾《しゅてきだん》に中《あた》った江木上等兵は、全身|黒焦《くろこげ》になったまま、松樹山《しょうじゅざん》の山腹に倒れていた。そこへ白襷《しろだすき》の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鉄条網《てつじょうもう》の中を走って来た。彼は戦友の屍骸《しがい》を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大声に笑い出した。大声に、――実際その哄笑《こうしょう》の声は、烈しい敵味方の銃火の中に、気味の悪い反響を喚《よ》び起した。
「万歳! 日本《にっぽん》万歳! 悪魔降伏。怨敵《おんてき》退散《たいさん》。第×聯隊万歳! 万歳! 万々歳!」
 彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破った、手擲弾の爆発にも頓着《とんちゃく》せず、続けざまにこう絶叫していた。その光に透《す》かして見れば、これは頭部銃創のために、突撃の最中《さいちゅう》発狂したらしい、堀尾一等卒その人だった。

     二 間牒《かんちょう》

 明治三十八年三月五日の午前、当時|全勝集《ぜんしょうしゅう》に駐屯《ちゅうとん》していた、A騎兵旅団《きへいりょだん》の参謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那人を取り調べて居た。彼等は間牒《かんちょう》の嫌疑《けんぎ》のため、臨時この旅団に加わっていた、第×聯隊の歩哨《ほしょう》の一人に、今し方|捉《とら》えられて来たのだった。
 この棟《むね》の低い支那家《しないえ》の中には、勿論今日も坎《かん》の火《か》っ気《き》が、快《こころよ》い温《あたたか》みを漂わせていた。が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦《しきがわら》に触れる拍車の音にも、卓《たく》の上に脱いだ外套《がいとう》の色にも、至る所に窺《うかが》われるのであった。殊に紅唐紙《べにとうし》の聯《れん》を貼《は》った、埃《ほこり》臭い白壁《しらかべ》の上に、束髪《そくはつ》に結《ゆ》った芸者の写真が、ちゃんと鋲《びょう》で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。
 そこには旅団参謀のほかにも、副官が一人、通訳が一人、二人の支那人を囲《かこ》んでいた。支那人は通訳の質問通り、何でも明瞭《めいりょう》に返事をした。のみならずやや年嵩《としかさ》らしい、顔に短い髯《ひげ》のある男は、通訳がまだ尋ねない事さえ、進んで説明する風があった。が、その答弁は参謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒にしたい、反感に似たものを与えるらしかった。
「おい歩兵《ほへい》!」
 旅団参謀は鼻声に、この支那人を捉《とら》えて来た、戸口にいる歩哨を喚《よ》びかけた。歩兵、――それは白襷隊《しろだすきたい》に加わっていた、田口《たぐち》一等卒《いっとうそつ》にほかならなかった。――彼は戸の卍字格子《まんじごうし》を後に、芸者の写真へ目をやっていたが、参謀の声に驚かされると、思い切り大きい答をした。
「はい。」
「お前だな、こいつらを掴《つか》まえたのは? 掴まえた時どんなだったか?」
 人の好《い》い田口一等卒は、朗読的にしゃべり出した。
「私《わたくし》が歩哨《ほしょう》に立っていたのは、この村の土塀《どべい》の北端、奉天《ほうてん》に通ずる街道《かいどう》であります。
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