その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて来ました。すると木の上の中隊長が、――」
「何、木の上の中隊長?」
参謀はちょいと目蓋《まぶた》を挙げた。
「はい。中隊長は展望《てんぼう》のため、木の上に登っていられたのであります。――その中隊長が木の上から、掴《つか》まえろと私に命令されました。」
「ところが私が捉《とら》えようとすると、そちらの男が、――はい。その髯のない男であります。その男が急に逃げようとしました。……」
「それだけか?」
「はい。それだけであります。」
「よし。」
旅団参謀は血肥《ちぶと》りの顔に、多少の失望を浮べたまま、通訳に質問の意を伝えた。通訳は退屈《たいくつ》を露《あらわ》さないため、わざと声に力を入れた。
「間牒でなければ何故《なぜ》逃げたか?」
「それは逃げるのが当然です。何しろいきなり日本兵が、躍《おど》りかかってきたのですから。」
もう一人の支那人、――鴉片《あへん》の中毒に罹《かか》っているらしい、鉛色の皮膚《ひふ》をした男は、少しも怯《ひる》まずに返答した。
「しかしお前たちが通って来たのは、今にも戦場になる街道《かいどう》じゃないか? 良民ならば用もないのに、――」
支那語の出来る副官は、血色の悪い支那人の顔へ、ちらりと意地の悪い眼を送った。
「いや、用はあるのです。今も申し上げた通り、私《わたくし》たちは新民屯《しんみんとん》へ、紙幣《しへい》を取り換えに出かけて来たのです。御覧下さい。ここに紙幣もあります。」
髯《ひげ》のある男は平然と、将校たちの顔を眺め廻した。参謀はちょいと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心|好《い》い気味に思われたのだ。……
「紙幣を取り換える? 命がけでか?」
副官は負惜《まけおし》みの冷笑を洩らした。
「とにかく裸にして見よう。」
参謀の言葉が通訳されると、彼等はやはり悪びれずに、早速|赤裸《あかはだか》になって見せた。
「まだ腹巻《はらまき》をしているじゃないか? それをこっちへとって見せろ。」
通訳が腹巻を受けとる時、その白木綿《しろもめん》に体温のあるのが、何だか不潔に感じられた。腹巻の中には三寸ばかりの、太い針がはいっていた。旅団参謀は窓明りに、何度もその針を検《しら》べて見た。が、それも平たい頭に、梅花《ばいか》の模様がついているほか、何も変った所はなかった。
「何か、これは?」
「私《わたくし》は鍼医《はりい》です。」
髯のある男はためらわずに、悠然と参謀の問に答えた。
「次手《ついで》に靴《くつ》も脱《ぬ》いで見ろ。」
彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠になる品は見当らなかった。この上は靴を壊《こわ》して見るよりほかはない。――そう思った副官は、参謀にその旨を話そうとした。
その時突然次の部屋から、軍司令官を先頭に、軍司令部の幕僚《ばくりょう》や、旅団長などがはいって来た。将軍は副官や軍参謀と、ちょうど何かの打ち合せのため、旅団長を尋ねて来ていたのだった。
「露探《ろたん》か?」
将軍はこう尋ねたまま、支那人の前に足を止めた。そうして彼等の裸姿《はだかすがた》へ、じっと鋭い眼を注いだ。後《のち》にある亜米利加《アメリカ》人が、この有名な将軍の眼には、Monomania じみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある。――そのモノメニアックな眼の色が、殊にこう云う場合には、気味の悪い輝きを加えるのだった。
旅団参謀は将軍に、ざっと事件の顛末《てんまつ》を話した。が、将軍は思い出したように、時々|頷《うなず》いて見せるばかりだった。
「この上はもうぶん擲《なぐ》ってでも、白状させるほかはないのですが、――」
参謀がこう云いかけた時、将軍は地図《ちず》を持った手に、床《ゆか》の上にある支那靴を指《ゆびさ》した。
「あの靴を壊《こわ》して見給え。」
靴は見る見る底をまくられた。するとそこに縫いこまれた、四五枚の地図と秘密書類が、たちまちばらばらと床の上に落ちた。二人の支那人はそれを見ると、さすがに顔の色を失ってしまった。が、やはり押し黙ったまま、剛情《ごうじょう》に敷瓦を見つめていた。
「そんな事だろうと思っていた。」
将軍は旅団長を顧みながら、得意そうに微笑を洩《もら》した。
「しかし靴とはまた考えたものですね。――おい、もうその連中《れんじゅう》には着物を着せてやれ。――こんな間牒《かんちょう》は始めてです。」
「軍司令官閣下の烱眼《けいがん》には驚きました。」
旅団副官は旅団長へ、間牒の証拠品を渡しながら、愛嬌《あいきょう》の好《い》い笑顔を見せた。――あたかも靴に目をつけたのは、将軍よりも彼自身が、先だった事も
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング