と云う気さえしなかった。罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、×××××××出来る点があった。しかし×××××××××××××ほかならなかった。しかも彼は、――いや、彼ばかりでもない。各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊《しろだすきたい》は、その大なる×××にも、厭《いや》でも死ななければならないのだった。……
「来た。来た。お前はどこの聯隊《れんたい》だ?」
 江木上等兵はあたりを見た。隊はいつか松樹山の麓《ふもと》の、集合地へ着いているのだった。そこにはもうカアキイ服に、古めかしい襷《たすき》をあやどった、各師団の兵が集まっている、――彼に声をかけたのも、そう云う連中の一人だった。その兵は石に腰をかけながら、うっすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰《にきび》をつぶしていた。
「第×聯隊だ。」
「パン聯隊だな。」
 江木上等兵は暗い顔をしたまま、何ともその冗談《じょうだん》に答えなかった。
 何時間かの後《のち》、この歩兵陣地の上には、もう彼我《ひが》の砲弾が、凄《すさ》まじい唸《うな》りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯《りかとん》の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙《つちけむり》を揚げた。その土煙の舞い上《あが》る合間《あいま》に、薄紫の光が迸《ほどばし》るのも、昼だけに、一層悲壮だった。しかし二千人の白襷隊《しろだすきたい》は、こう云う砲撃の中に機《き》を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった。また恐怖に挫《ひし》がれないためには、出来るだけ陽気に振舞《ふるま》うほか、仕様のない事も事実だった。
「べらぼうに撃ちやがるな。」
 堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子《ひょうし》に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂《さ》いた。彼は思わず首を縮《ちぢ》めながら、砂埃《すなほこり》の立つのを避けるためか、手巾《ハンカチ》に鼻を掩《おお》っていた、田口《たぐち》一等卒に声をかけた。
「今のは二十八珊《にじゅうはっサンチ》だぜ。」
 田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾《ハンカチ》をおさめた。それは彼が出征する時、馴染《なじみ》の芸者に貰って来た、縁《ふち》に繍《ぬい》のある手巾《ハンカチ》だった。
「音が違うな、二十八|珊《サンチ》は。――」
 田口一等卒はこう云うと、狼狽《ろうばい》したように姿勢を正した。同時に大勢《おおぜい》の兵たちも、声のない号令《ごうれい》でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚《ばくりょう》を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。
「こら、騒いではいかん。騒ぐではない。」
 将軍は陣地を見渡しながら、やや錆《さび》のある声を伝えた。
「こう云う狭隘《きょうあい》な所だから、敬礼も何もせなくとも好《よ》い。お前達は何聯隊の白襷隊《しろだすきたい》じゃ?」
 田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるのを感じた。その眼はほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足るものだった。
「はい。歩兵第×聯隊であります。」
「そうか。大元気《おおげんき》にやってくれ。」
 将軍は彼の手を握った。それから堀尾《ほりお》一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸《の》べながら、もう一度同じ事を繰返《くりかえ》した。
「お前も大元気にやってくれ。」
 こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化《こうか》したように、直立不動の姿勢になった。幅の広い肩、大きな手、頬骨《ほおぼね》の高い赭《あか》ら顔。――そう云う彼の特色は、少くともこの老将軍には、帝国軍人の模範《もはん》らしい、好印象を与えた容子《ようす》だった。将軍はそこに立ち止まったまま、熱心になお話し続けた。
「今打っている砲台があるな。今夜お前たちはあの砲台を、こっちの物にしてしまうのじゃ。そうすると予備隊は、お前たちの行った跡《あと》から、あの界隈《かいわい》の砲台をみんな手に入れてしまうのじゃ。何でも一遍《いっぺん》にあの砲台へ、飛びつく心にならなければいかん。――」
 そう云う内に将軍の声には、いつか多少戯曲的な、感激の調子がはいって来た。
「好《よ》いか? 決して途中に立ち止まって、射撃なぞをするじゃないぞ。五尺の体を砲弾だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ。どうか、しっかりやってくれ。」
 将軍は「しっかり」の意味を伝えるように、堀尾一等卒の手を握った。そうしてそこを通り過ぎた。
「嬉しくもねえな。――」
 堀尾一等卒は狡猾《こうかつ》そうに、将軍の跡《あと》を見送りながら、田口一等卒へ目交《めくば》せをした。
「え、おい。あんな爺《じい》さんに手を握られたのじゃ。」
 田口一等卒
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