ですか? じゃまた、――御勉強中失礼でした。」
 粟野さんはどちらかと言えば借金を断《ことわ》られた人のように、十円札をポケットへ収めるが早いか、そこそこ辞書《じしょ》や参考書の並んだ書棚《しょだな》の向うへ退却した。あとにはまた力のない、どこかかすかに汗ばんだ沈黙ばかり残っている。保吉はニッケルの時計を出し、そのニッケルの蓋《ふた》の上に映《うつ》った彼自身の顔へ目を注《そそ》いだ。いつも平常心《へいじょうしん》を失ったなと思うと、厭《いや》でも鏡中の彼自身を見るのは十年来の彼の習慣である。もっともニッケルの時計の蓋《ふた》は正確に顔を映すはずはない。小さい円の中の彼の顔は全体に頗《すこぶ》る朦朧《もうろう》とした上、鼻ばかり非常にひろがっている。幸いにそれでも彼の心は次第に落着きを取り戻しはじめた。同時にまた次第に粟野さんの好意を無《む》にした気の毒さを感じはじめた。粟野さんは十円札を返されるよりも、むしろ欣然《きんぜん》と受け取られることを満足に思ったのに違いない。それを突き返したのは失礼である。のみならず、――
 保吉はこの「のみならず」の前につむじ風に面するたじろぎを感じた。
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