に発車の笛を待ちながら、今朝《けさ》よりも一層《いっそう》痛切に六十何銭かのばら銭《せん》に交《まじ》った一枚の十円札を考えつづけた。
 今朝よりも一層痛切に、――しかし今朝よりも憂鬱にではない。今朝はただ金のないことを不愉快に思うばかりだった。けれども今はそのほかにもこの一枚の十円札を返さなければならぬと云う道徳的興奮を感じている。道徳的?――保吉は思わず顔をしかめた。いや、断じて道徳的ではない。彼はただ粟野さんの前に彼自身の威厳《いげん》を保ちたいのである。もっとも威厳を保つ所以《ゆえん》は借りた金を返すよりほかに存在しないと云う訣《わけ》ではない。もし粟野さんも芸術を、――少くとも文芸を愛したとすれば、作家堀川保吉は一篇の傑作を著《あら》わすことに威厳を保とうと試みたであろう。もしまた粟野さんも我々のように一介《いっかい》の語学者にほかならなかったとすれば、教師堀川保吉は語学的素養を示すことに威厳を保つことも出来たはずである。が、芸術に興味のない、語学的天才たる粟野さんの前にはどちらも通用するはずはない。すると保吉は厭《いや》でも応《おう》でも社会人たる威厳を保たなければならぬ。即ち借りた金を返さなければならぬ。こう云う手数《てすう》をかけてまでも、無理に威厳を保とうとするのはあるいは滑稽《こっけい》に聞えるかも知れない。しかし彼はどう云う訣《わけ》か、誰よりも特に粟野さんの前に、――あの金縁《きんぶち》の近眼鏡をかけた、幾分《いくぶん》か猫背《ねこぜ》の老紳士の前に彼自身の威厳を保ちたいのである。……
 その内に汽車は動き出した。いつか曇天《どんてん》を崩《くず》した雨はかすかに青んだ海の上に何隻も軍艦を煙らせている。保吉は何かほっとしながら、二三人しか乗客のいないのを幸い、長ながとクッションの上に仰向《あおむ》けになった。するとたちまち思い出したのは本郷《ほんごう》のある雑誌社である。この雑誌社は一月《ひとつき》ばかり前に寄稿を依頼する長手紙をよこした。しかしこの雑誌社から発行する雑誌に憎悪《ぞうお》と侮蔑《ぶべつ》とを感じていた彼は未だにその依頼に取り合わずにいる。ああ云う雑誌社に作品を売るのは娘を売笑婦《ばいしょうふ》にするのと選ぶ所はない。けれども今になって見ると、多少の前借《ぜんしゃく》の出来そうなのはわずかにこの雑誌社一軒である。もし多少の前借で
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