殿の瀑布図ではない。陳宝※[#「王+深のつくり」、第3水準1−88−4]《ちんはうしん》氏蔵の瀑布図である)が、気稟《きひん》の然らしむる所か頭の下《さが》つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。
 松は尖つた岩の中から、真直《まつすぐ》に空へ生え抜いてゐる。その梢《こずゑ》には石英《せきえい》のやうに、角張《かどば》つた雲煙《うんえん》が横《よこた》はつてゐる。画中の景はそれだけである。しかしこの幽絶な世界には、雲林《うんりん》の外《ほか》に行つたものはない。黄大癡《くわうたいち》の如き巨匠さへも此処《ここ》へは足を踏み入れずにしまつた。況《いはん》や明清《みんしん》の画人をやである。
 南画は胸中の逸気《いつき》を写せば、他は措《お》いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴《はうふつ》と生きてゐはしないか? 油画《あぶらゑ》は真《しん》を写すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出来ない。モネの薔薇《ばら》を真《しん》と云ふか、雲林の松を仮《か》と云ふか、所詮《しよせん》は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの図を眺めながら、そんな事も考へた覚え
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