支那の画
芥川龍之介

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雲林《うんりん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三四|幅《ふく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)陳宝※[#「王+深のつくり」、第3水準1−88−4]《ちんはうしん》
−−

     松樹図

 雲林《うんりん》を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝《せんとうてい》の御物《ぎよぶつ》、今古奇観《きんこきくわん》と云ふ画帖《ぐわでふ》の中にあつた。画帖の中の画《ゑ》は大部分、薫其昌《とうきしやう》の旧蔵に係《かか》るものらしい。
 雲林筆《うんりんひつ》と称《とな》へる物は、文華殿《ぶんくわでん》にも三四|幅《ふく》あつた。しかしその画帖の中の、雄剄《ゆうけい》な松の図に比べれば、遙《はる》かに画品の低いものである。
 わたしは梅道人《ばいだうじん》の墨竹《ぼくちく》を見、黄大癡《くわうたいち》の山水《さんすゐ》を見、王叔明《わうしゆくめい》の瀑布《ばくふ》を見た。(文華殿の瀑布図ではない。陳宝※[#「王+深のつくり」、第3水準1−88−4]《ちんはうしん》氏蔵の瀑布図である)が、気稟《きひん》の然らしむる所か頭の下《さが》つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。
 松は尖つた岩の中から、真直《まつすぐ》に空へ生え抜いてゐる。その梢《こずゑ》には石英《せきえい》のやうに、角張《かどば》つた雲煙《うんえん》が横《よこた》はつてゐる。画中の景はそれだけである。しかしこの幽絶な世界には、雲林《うんりん》の外《ほか》に行つたものはない。黄大癡《くわうたいち》の如き巨匠さへも此処《ここ》へは足を踏み入れずにしまつた。況《いはん》や明清《みんしん》の画人をやである。
 南画は胸中の逸気《いつき》を写せば、他は措《お》いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴《はうふつ》と生きてゐはしないか? 油画《あぶらゑ》は真《しん》を写すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出来ない。モネの薔薇《ばら》を真《しん》と云ふか、雲林の松を仮《か》と云ふか、所詮《しよせん》は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの図を眺めながら、そんな事も考へた覚え
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング