がある。
蓮鷺図
志賀直哉《しがなほや》氏の蔵する宋画《そうぐわ》に、蓮花《れんくわ》と鷺《さぎ》とを描《ゑが》いたのがある。南蘋《なんぴん》などの蓮の花は、この画《ゑ》よりも所謂《いはゆる》写生に近い。花瓣の薄《うす》さや葉の光沢《くわうたく》は、もつと如実《によじつ》に写してある。しかしこの画の蓮のやうに、空霊澹蕩《くうれいたんたう》たる趣はない。
この画の蓮は花でも葉でも、悉《ことごとく》どつしり落ち着いてゐる。殊に蓮の実の如きは、古色を帯びた絹の上に、その実の重さを感ぜしめる程、金属めいた美しさを保つてゐる。鷺《さぎ》も亦《また》唯の鷺ではない。背中の羽根を逆《さかさ》に撫《な》でたら、手の平に羽先《はさき》がこたへさうである。かう云ふ重々しい全体の感じは、近代の画にないばかりではない。大陸の風土に根を下《おろ》した、隣邦の画にのみ見られるものである。
日本の画は勿論《もちろん》支那の画と、親類同士の間がらである。しかしこの粘《ねば》り強さは、古画や南画にも見当らない。日本のはもつと軽みがある。同時に又もつと優しみがある。八大《はちだい》の魚や新羅《しんら》の鳥さへ、大雅《たいが》の巖下に游《あそ》んだり、蕪村《ぶそん》の樹上に棲《す》んだりするには、余りに逞《たくま》しい気がするではないか? 支那の画は実に思ひの外《ほか》、日本の画には似てゐないらしい。
鬼趣図
天津《てんしん》の方若《はうじやく》氏のコレクシヨンの中に、珍しい金冬心《きんとうしん》が一幅あつた。これは二尺に一尺程の紙へ、いろいろの化け物を描《か》いたものである。
羅両峰《らりやうほう》の鬼趣図《きしゆづ》とか云ふのは、写真版になつたのを見た事があつた。両峯は冬心《とうしん》の御弟子《おでし》だから、あの鬼趣図のプロトタイプも、こんな所にあるのかも知れない。両峯の化け物は写真版によると、妙に無気味《ぶきみ》な所があつた。冬心のはさう云ふ妖気《えうき》はない、その代りどれも可愛げがある。こんな化け物がゐるとすれば、夜色も昼よりは明るいであらう。わたしは蕭々《せうせう》たる樹木の間《あひだ》に、彼等の群《むらが》つたのを眺めながら、化け物も莫迦《ばか》には出来ないと思つた。
何《なん》とか云ふ独逸出来《ドイツでき》の本に、化け物の画《ゑ》ばかり集めたのが
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