った。風呂場《ふろば》の手桶《ておけ》には山百合《やまゆり》が二本、無造作《むぞうさ》にただ抛《ほう》りこんであった。何だかその匂《におい》や褐色の花粉がべたべた皮膚《ひふ》にくっつきそうな気がした。
 多加志はたった一晩のうちに、すっかり眼が窪《くぼ》んでいた。今朝《けさ》妻が抱き起そうとすると、頭を仰向《あおむ》けに垂らしたまま、白い物を吐《は》いたとか云うことだった。欠伸《あくび》ばかりしているのもいけないらしかった。自分は急にいじらしい気がした。同時にまた無気味《ぶきみ》な心もちもした。Sさんは子供の枕もとに黙然《もくねん》と敷島《しきしま》を啣《くわ》えていた。それが自分の顔を見ると、「ちとお話したいことがありますから」と云った。自分はSさんを二階に招じ、火のない火鉢をさし挟《はさ》んで坐った。「生命に危険はないと思いますが」Sさんはそう口を切った。多加志はSさんの言葉によれば、すっかり腸胃を壊《こわ》していた。この上はただ二三日の間《あいだ》、断食《だんじき》をさせるほかに仕かたはなかった。「それには入院おさせになった方が便利ではないかと思うんです」自分は多加志の容体《よう
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