のうございますね」手洗いの湯をすすめに来た母はほとんど手柄顔《てがらがお》にこう云った。自分も安心をしなかったにしろ、安心に近い寛《くつろ》ぎを感じた。それには粘液の多少のほかにも、多加志の顔色や挙動などのふだんに変らないせいもあったのだった。「あしたは多分熱が下《さが》るでしょう。幸い吐《は》き気《け》も来ないようですから」Sさんは母に答えながら、満足そうに手を洗っていた。
翌朝《よくあさ》自分の眼をさました時、伯母《おば》はもう次の間《ま》に自分の蚊帳《かや》を畳《たた》んでいた。それが蚊帳の環《かん》を鳴らしながら、「多加ちゃんが」何とか云ったらしかった。まだ頭のぼんやりしていた自分は「多加志が?」と好《い》い加減に問い返した。「多加ちゃんが悪いんだよ。入院させなければならないんだとさ」自分は床《とこ》の上に起き直った。きのうのきょうだけに意外な気がした。「Sさんは?」「先生ももう来ていらっしゃるんだよ、さあさあ、早くお起きなさい」伯母は感情を隠すように、妙にかたくなな顔をしていた。自分はすぐに顔を洗いに行った。不相変《あいかわらず》雲のかぶさった、気色《きしょく》の悪い天気だ
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