フ頃は、さつぱり煙草を召し上らないやうでございますね。」
 トルストイ夫人は夫の悪謔から、巧妙に客を救ひ出した。
「ええ、すつかり煙草はやめにしました。巴里《パリ》に二人美人がゐましてね、その人たちは私が煙草臭いと、接吻させないと云ふものですから。」
 今度はトルストイが苦笑した。
 その内に一行はヴアロンカ川を渡つて、鴫打《しぎう》ちの場所へ辿《たど》り着いた。其処《そこ》は川から遠くない、雑木林が疎《まばら》になつた、湿気の多い草地だつた。
 トルストイはトウルゲネフに、最も好い打ち場を譲つた。そして彼自身はその打ち場から、百五十歩ばかり遠のいた、草地の一隅に位置を定めた。それからトルストイ夫人はトウルゲネフの側に、子供たちは彼等のずつと後に、各々分れてゐる事になつた。
 空はまだ赤らんでゐた。その空を絡《かが》つた木々の梢が、一面にぼんやり煙つてゐるのは、もう匂の高い若芽が、簇《むらが》つてゐるのに違ひなかつた。トウルゲネフは銃を提《さ》げたなり、透《す》かすやうに木々の間を眺めた。薄明い林の中からは、時々風とは云へぬ程の風が、気軽さうな囀《さへづ》りを漂はせて来た。
「駒鳥や鶸
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