山鴫
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)主《あるじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)唯|五十雀《ごじふから》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+燻のつくり」、第3水準1−85−42]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつた
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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千八百八十年五月何日かの日暮れ方である。二年ぶりにヤスナヤ・ポリヤナを訪れた Ivan Turgenyef は主《あるじ》の Tolstoi 伯爵と一しよに、ヴアロンカ川の向うの雑木林へ、山鴫《やましぎ》を打ちに出かけて行つた。
鴫打ちの一行には、この二人の翁《おきな》の外にも、まだ若々しさの失せないトルストイ夫人や、犬をつれた子供たちが加はつてゐた。
ヴアロンカ川へ出るまでの路は、大抵麦畑の中を通つてゐた。日没と共に生じた微風は、その麦の葉を渡りながら、静に土の匂を運んで来た。トルストイは銃を肩にしながら、誰よりも先に歩いて行つた。さうして時々後を向いては、トルストイ夫人と歩いてゐるトウルゲネフに話しかけた。その度に「父と子と」の作家は、やや驚いたやうに眼を挙げながら、嬉しさうに滑らかな返事をした。時によると又幅の広い肩を揺すつて、嗄《しはが》れた笑ひ声を洩す事もあつた。それは無骨《ぶこつ》なトルストイに比べると、上品な趣があると同時に、何処《どこ》か女らしい答ぶりだつた。
路がだらだら坂になつた時、兄弟らしい村の子供が、向うから二人走つて来た。彼等はトルストイの顔を見ると、一度に足を止めて目礼をした。それから又元のやうに、はだしの足の裏を見せながら、勢よく坂を駈け上つて行つた。トルストイの子供たちの中には、後から彼等へ何事か、大声に呼びかけるものもあつた。が、二人はそれも聞えないやうに、見る見る麦畑の向うに隠れてしまつた。
「村の子供たちは面白いよ。」
トルストイは残※[#「日+燻のつくり」、第3水準1−85−42]《ざんくん》を顔に受けながら、トウルゲネフの方を振返つた。
「ああ云ふ連中の言葉を聞いてゐると、我々には思ひもつかない、直截《ちよくせつ》な云ひまはしを教へられる事がある。」
トウルゲネフは微笑した。今の彼は昔の彼ではない。昔の彼はトルストイの言葉に、子供らしい感激を感じると、我知らず皮肉に出勝ちだつた。……
「この間もああ云ふ連中を教えてゐると、――」
トルストイは話し続けた。
「いきなり一人、教室を飛び出さうとする子供があるのだね。そこで何処へ行くのだと尋《き》いて見たら、白墨《チヨオク》を食ひ欠きに行くのですと云ふのだ。貰ひに行くとも云はなければ、折つて来るとも云ふのではない。食ひ欠きに行くと云ふのだね。かう云ふ言葉が使へるのは、現に白墨《チヨオク》を噛じつてゐる露西亜《ロシア》の子供があるばかりだ。我々大人には到底出来ない。」
「成程、これは露西亜の子供に限りさうだ。その上僕なぞはそんな話を聞かされると、しみじみ露西亜へ帰つて来たと云ふ心持がする。」
トウルゲネフは今更のやうに、麦畑へ眼を漂はせた。
「さうだらう。仏蘭西《フランス》なぞでは子供までが、巻煙草位は吸ひ兼ねない。」
「さう云へばあなたもこの頃は、さつぱり煙草を召し上らないやうでございますね。」
トルストイ夫人は夫の悪謔から、巧妙に客を救ひ出した。
「ええ、すつかり煙草はやめにしました。巴里《パリ》に二人美人がゐましてね、その人たちは私が煙草臭いと、接吻させないと云ふものですから。」
今度はトルストイが苦笑した。
その内に一行はヴアロンカ川を渡つて、鴫打《しぎう》ちの場所へ辿《たど》り着いた。其処《そこ》は川から遠くない、雑木林が疎《まばら》になつた、湿気の多い草地だつた。
トルストイはトウルゲネフに、最も好い打ち場を譲つた。そして彼自身はその打ち場から、百五十歩ばかり遠のいた、草地の一隅に位置を定めた。それからトルストイ夫人はトウルゲネフの側に、子供たちは彼等のずつと後に、各々分れてゐる事になつた。
空はまだ赤らんでゐた。その空を絡《かが》つた木々の梢が、一面にぼんやり煙つてゐるのは、もう匂の高い若芽が、簇《むらが》つてゐるのに違ひなかつた。トウルゲネフは銃を提《さ》げたなり、透《す》かすやうに木々の間を眺めた。薄明い林の中からは、時々風とは云へぬ程の風が、気軽さうな囀《さへづ》りを漂はせて来た。
「駒鳥や鶸
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