sひは》が啼《な》いて居ります。」
トルストイ夫人は首を傾けながら、独り語《ごと》のやうにかう云つた。
徐《おもむろ》に沈黙の半時間が過ぎた。
その間に空は水のやうになつた。同時に遠近《をちこち》の樺の幹が、それだけ白々と見えるやうになつた。駒鳥や鶸《ひは》の声の代りに、今は唯|五十雀《ごじふから》が、稀に鳴き声を送つて来る、――トウルゲネフはもう一度、疎《まばら》な木々の中を透かして見た。が、今度は林の奥も、あら方|夕暗《ゆふや》みに沈んでゐた。
この時一発の銃声が、突然林間に響き渡つた。後に待つてゐた子供たちは、その反響がまだ消えない内に、犬と先を争ひながら、獲物を拾ひに駈けて行つた。
「御主人に先を越されました。」
トウルゲネフは微笑しながら、トルストイ夫人を振り返つた。
やがて二男のイリアが母の所へ、草の中を走つて来た。さうしてトルストイの射止めたのは、山鴫《やましぎ》だと云ふ報告をした。
トウルゲネフは口を挾んだ。
「誰が見つけました?」
「ドオラ(犬の名)が見つけたのです。――見つけた時は、まだ生きてゐましたよ。」
イリアは又母の方を向くと、健康さうな頬を火照《ほて》らせながら、その山鴫が見つかつた時の一部始終を話して聞かせた。
トウルゲネフの空想には、「猟人日記」の一章のやうな、小品の光景がちらりと浮んだ。
イリアが帰つて行つた後は、又元の通り静かになつた。薄暗い林の奥からは、春らしい若芽の匂だの湿つた土の匂だのが、しつとりとあたりへ溢れて来た。その中に何か眠さうな鳥が、時たま遠くに啼く声がした。
「あれは、――?」
「縞蒿雀《しまあをじ》です。」
トウルゲネフはすぐに返事をした。
縞蒿雀は忽ち啼きやんだ。それぎり少時《しばらく》は夕影の木々に、ぱつたり囀《さへづ》りが途絶えてしまつた。空は、――微風さへ全然落ちた空は、その生気のない林の上に、だんだん蒼い色を沈めて来る、――と思ふと鳧《けり》が一羽、寂しい声を飛ばせながら、頭の上を翔《か》けて通つた。
再び一発の銃声が、林間の寂寞を破つたのは、それから一時間も後の事だつた。
「リヨフ・ニコラエヰツチは鴫打ちでも、やはり私を負かしさうです。」
トウルゲネフは眼だけ笑ひながら、ちよいと肩を聳《そびや》かせた。
子供たちが皆駈けだした音、ドオラが時々吠え立てる声、――それがもう
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