なぜか蓋《ふた》を開かなかった。しかももう水平線には敵の艦隊の挙げる煙も幾すじかかすかにたなびいていた。この手ぬかりを見た水兵たちの一人は砲身の上へ跨《またが》るが早いか、身軽に砲口まで腹這《はらば》って行き、両足で蓋《ふた》を押しあけようとした。しかし蓋をあけることは存外《ぞんがい》容易には出来ないらしかった。水兵は海を下にしたまま、何度も両足をあがくようにしていた。が、時々顔を挙げては白い歯を見せて笑ったりもしていた。そのうちに××は大うねりに進路を右へ曲げはじめた。同時にまた海は右舷《うげん》全体へ凄《すさ》まじい浪《なみ》を浴びせかけた。それは勿論あっと言う間《ま》に大砲に跨った水兵の姿をさらってしまうのに足《た》るものだった。海の中に落ちた水兵は一生懸命に片手を挙げ、何かおお声に叫んでいた。ブイは水兵たちの罵《ののし》る声と一しょに海の上へ飛んで行った。しかし勿論××は敵の艦隊を前にした以上、ボオトをおろす訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだった。彼の運命は遅かれ早かれ溺死《できし》するのに定《き》まっていた。のみならず鱶《ふか》はこの海にも決して少いとは言われなかった。……
若い楽手《がくしゅ》の戦死に対するK中尉の心もちはこの海戦の前の出来事の記憶と対照を作らずにいる訣《わけ》はなかった。彼は兵学校へはいったものの、いつか一度は自然主義の作家になることを空想していた。のみならず兵学校を卒業してからもモオパスサンの小説などを愛読していた。人生はこう云うK中尉には薄暗い一面を示し勝ちだった。彼は××に乗り組んだ後《のち》、エジプトの石棺《せっかん》に書いてあった「人生――戦闘《せんとう》」と云う言葉を思い出し、××の将校や下士卒は勿論、××そのものこそ言葉通りにエジプト人の格言を鋼鉄に組み上げていると思ったりした。従って楽手の死骸の前には何かあらゆる戦いを終った静かさを感じずにはいられなかった。しかしあの水兵のようにどこまでも生きようとする苦しさもたまらないと思わずにはいられなかった。
K中尉は額《ひたい》の汗を拭きながら、せめては風にでも吹かれるために後部甲板《こうぶかんぱん》のハッチを登って行った。すると十二|吋《インチ》の砲塔《ほうとう》の前に綺麗《きれい》に顔を剃《そ》った甲板士官《かんぱんし
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