かん》が一人《ひとり》両手を後《うし》ろに組んだまま、ぶらぶら甲板を歩いていた。そのまた前には下士《かし》が一人《ひとり》頬骨《ほおぼね》の高い顔を半ば俯向《うつむ》け、砲塔を後ろに直立していた。K中尉はちょっと不快になり、そわそわ甲板士官の側へ歩み寄った。
「どうしたんだ?」
「何、副長の点検前に便所へはいっていたもんだから。」
 それは勿論軍艦の中では余り珍らしくない出来事だった。K中尉はそこに腰をおろし、スタンションを取り払った左舷《さげん》の海や赤い鎌なりの月を眺め出した。あたりは甲板士官の靴《くつ》の音のほかに人声も何も聞えなかった。K中尉は幾分か気安さを感じ、やっときょうの海戦中の心もちなどを思い出していた。
「もう一度わたくしはお願い致します。善行賞《ぜんこうしょう》はお取り上げになっても仕かたはありません。」
 下士《かし》は俄《にわか》に顔を挙げ、こう甲板士官に話しかけた。K中尉は思わず彼を見上げ、薄暗い彼の顔の上に何か真剣な表情を感じた。しかし快活な甲板士官はやはり両手を組んだまま、静かに甲板を歩きつづけていた。
「莫迦《ばか》なことを言うな。」
「けれどもここに起立していてはわたくしの部下に顔も合わされません。進級の遅れるのも覚悟しております。」
「進級の遅れるのは一大事だ。それよりそこに起立していろ。」
 甲板士官はこう言った後《のち》、気軽にまた甲板を歩きはじめた。K中尉も理智的には甲板士官に同意見だった。のみならずこの下士の名誉心を感傷的と思う気もちもない訣《わけ》ではなかった。が、じっと頭を垂《た》れた下士は妙にK中尉を不安にした。
「ここに起立しているのは恥辱《ちじょく》であります。」
 下士は低い声に頼みつづけた。
「それはお前の招いたことだ。」
「罰は甘んじて受けるつもりでおります。ただどうか起立していることは」
「ただ恥辱と云う立てまえから見れば、どちらも畢竟《ひっきょう》同じことじゃないか?」
「しかし部下に威厳を失うのはわたくしとしては苦しいのであります。」
 甲板士官は何とも答えなかった。下士は、――下士もあきらめたと見え、「あります」に力を入れたぎり、一言《ひとこと》も言わずに佇《たたず》んでいた。K中尉はだんだん不安になり、(しかもまた一面にはこの下士の感傷主義に欺《だま》されまいと云う気もない訣《わけ》ではなかった。
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