)何か彼のために言ってやりたいのを感じた。しかしその「何か」も口を出た時には特色のない言葉に変っていた。
「静かだな。」
「うん。」
 甲板士官はこう答えたなり、今度は顋《あご》をなでて歩いていた。海戦の前夜にK中尉に「昔、木村重成《きむらしげなり》は……」などと言い、特に叮嚀《ていねい》に剃《そ》っていた顋《あご》を。……
 この下士は罰をすました後《のち》、いつか行方《ゆくえ》不明になってしまった。が、投身することは勿論|当直《とうちょく》のある限りは絶対に出来ないのに違いなかった。のみならず自殺の行《おこな》われ易い石炭庫《せきたんこ》の中にもいないことは半日とたたないうちに明かになった。しかし彼の行方不明になったことは確かに彼の死んだことだった。彼は母や弟にそれぞれ遺書を残していた。彼に罰を加えた甲板士官は誰の目にも落ち着かなかった。K中尉は小心《しょうしん》ものだけに人一倍彼に同情し、K中尉自身の飲まない麦酒《ビール》を何杯も強《し》いずにはいられなかった。が、同時にまた相手の酔うことを心配しずにもいられなかった。
「何しろあいつは意地っぱりだったからなあ。しかし死ななくっても善《い》いじゃないか?――」
 相手は椅子《いす》からずり落ちかかったなり、何度もこんな愚痴《ぐち》を繰り返していた。
「おれはただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって、……」
 ××の鎮海湾《ちんかいわん》へ碇泊《ていはく》した後《のち》、煙突《えんとつ》の掃除《そうじ》にはいった機関兵は偶然この下士を発見した。彼は煙突の中に垂れた一すじの鎖《くさり》に縊死《いし》していた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も焼け落ちたために下っているのは骸骨《がいこつ》だけだった。こう云う話はガンルウムにいたK中尉にも伝わらない訣《わけ》はなかった。彼はこの下士の砲塔の前に佇《たたず》んでいた姿を思い出し、まだどこかに赤い月の鎌なりにかかっているように感じた。
 この三人の死はK中尉の心にいつまでも暗い影を投げていた。彼はいつか彼等の中に人生全体さえ感じ出した。しかし年月《ねんげつ》はこの厭世《えんせい》主義者をいつか部内でも評判の善《よ》い海軍少将の一人に数えはじめた。彼は揮毫《きごう》を勧《すす》められても、滅多《めった》に筆をとり上げたことはなかった。が、やむを得ない場合だけ
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