中尉はちょっと疑惑とも躊躇《ちゅうちょ》ともつかない表情を示した。それから何とも返事をしずにテエブルの上の新聞を読みはじめた。ガンルウムの中には二人《ふたり》のほかにちょうど誰もい合わせなかった。が、テエブルの上のコップにはセロリイが何本もさしてあった。A中尉もこの水々しいセロリイの葉を眺めたまま、やはり巻煙草ばかりふかしていた。こう云う素《そ》っ気ないY中尉に不思議にも親しみを感じながら。………
2 三人
一等戦闘艦××はある海戦を終った後《のち》、五隻の軍艦を従えながら、静かに鎮海湾《ちんかいわん》へ向って行った。海はいつか夜《よる》になっていた。が、左舷《さげん》の水平線の上には大きい鎌《かま》なりの月が一つ赤あかと空にかかっていた。二万|噸《トン》の××の中は勿論まだ落ち着かなかった。しかしそれは勝利の後《あと》だけに活《い》き活《い》きとしていることは確かだった。ただ小心者《しょうしんもの》のK中尉だけはこう云う中にも疲れ切った顔をしながら、何か用を見つけてはわざとそこここを歩きまわっていた。
この海戦の始まる前夜、彼は甲板《かんぱん》を歩いているうちにかすかな角燈《かくとう》の光を見つけ、そっとそこへ歩いて行った。するとそこには年の若い軍楽隊《ぐんがくたい》の楽手《がくしゅ》が一人《ひとり》甲板の上に腹ばいになり、敵の目を避けた角燈の光に聖書を読んでいるのであった。K中尉は何か感動し、この楽手に優しい言葉をかけた。楽手はちょいと驚いたらしかった。が、相手の上官の小言《こごと》を言わないことを発見すると、たちまち女らしい微笑を浮かべ、怯《お》ず怯《お》ず彼の言葉に答え出した。……しかしその若い楽手ももう今ではメエン・マストの根もとに中《あた》った砲弾のために死骸《しがい》になって横になっていた。K中尉は彼の死骸を見た時、俄《にわ》かに「死は人をして静かならしむ」と云う文章を思い出した。もしK中尉自身も砲弾のために咄嗟《とっさ》に命《いのち》を失っていたとすれば、――それは彼にはどう云う死よりも幸福のように思われるのだった。
けれどもこの海戦の前の出来事は感じ易いK中尉の心に未《いま》だにはっきり残っていた。戦闘準備を整《ととの》えた一等戦闘艦××はやはり五隻の軍艦を従え、浪《なみ》の高い海を進んで行った。すると右舷《うげん》の大砲が一門
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング