A中尉は次に命令する言葉を心の中に用意していた。が、しばらく何も言わずに甲板《かんぱん》の上を歩いていた。「こいつは罰を受けるのを恐れている。」――そんな気もあらゆる上官のようにA中尉には愉快でないことはなかった。
「もう善《い》い。あっちへ行《ゆ》け。」
A中尉はやっとこう言った。Sは挙手の礼をした後《のち》、くるりと彼に後《うし》ろを向け、ハッチの方へ歩いて行こうとした。彼は微笑《びしょう》しないように努力しながら、Sの五六歩|隔《へだた》った後《のち》、俄《にわ》かにまた「おい待て」と声をかけた。
「はい。」
Sは咄嗟にふり返った。が、不安はもう一度|体中《からだじゅう》に漲《みなぎ》って来たらしかった。
「お前に言いつける用がある。平坂下《ひらさかした》にはクラッカアを売っている店があるな?」
「はい。」
「あのクラッカアを一袋買って来い。」
「今でありますか?」
「そうだ。今すぐに。」
A中尉は日に焼けたSの頬《ほお》に涙の流れるのを見のがさなかった。――
それから二三日たった後《のち》、A中尉はガンルウムのテエブルに女名前の手紙に目を通していた。手紙は桃色の書簡箋《しょかんせん》に覚束《おぼつか》ないペンの字を並べたものだった。彼は一通り読んでしまうと、一本の巻煙草に火をつけながら、ちょうど前にいたY中尉にこの手紙を投げ渡した。
「何《なん》だ、これは? ……『昨日《さくじつ》のことは夫の罪にては無之《これなく》、皆浅はかなるわたくしの心より起りしこと故、何とぞ不悪《あしからず》御ゆるし下され度《たく》候《そうろう》。……なおまた御志《おこころざし》のほどは後《のち》のちまでも忘れまじく』………」
Y中尉は手紙を持ったまま、だんだん軽蔑《けいべつ》の色を浮べ出した。それから無愛想《ぶあいそう》にA中尉の顔を見、冷《ひや》かすように話しかけた。
「善根《ぜんこん》を積んだと云う気がするだろう?」
「ふん、多少しないこともない。」
A中尉は軽がると受け流したまま、円窓《まるまど》の外を眺めていた。円窓の外に見えるのは雨あしの長い海ばかりだった。しかし彼はしばらくすると、俄《にわ》かに何かに羞《は》じるようにこうY中尉に声をかけた。
「けれども妙に寂しいんだがね。あいつのビンタを張った時には可哀そうだとも何《なん》とも思わなかった癖に。……」
Y
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