す。陛下は唯今わたくしにお金を恵んで下さいました。わたくしも亦お礼のしるしにその指環を陛下にさし上げます。
商人 誰だ、お前は?
乞食 わたくしでございますか? わたくしの名は誰も知りません。知つてゐるのは唯|空《そら》の上《うへ》のアラアだけでございます。
 乞食はかう云つたと思ふと、見る見る香《かう》の煙のやうに、何処《どこ》かへ姿を隠してしまひました。あとには朝日の光のさした町の敷き石があるだけです。ハアヂと名乗つた商人は何時《いつ》までも指環を手にのせた儘 不思議さうにあたりを眺めてゐました。
       二
 バグダツドの市場《いちば》の噴き井《ゐ》の上には大きい無花果《いちぢく》が葉を拡げてゐます。その噴き井の右ゐるのはハアヂと名乗つた先刻の商人、左にゐるのは水瓶《みづかめ》をさげた、美しい一人《ひとり》の娘です。娘は貧しい身なりをしてゐますが、実際広いアラビアの中にも、この位美しい娘はありますまい。殊に今は日の暮のせゐか、薄明《うすあか》りに浮んだ眼の涼しさは宵の明星《めうじやう》にも負けない位です。
商人 「マルシナアさん。わたしはあなたを妻にしたいのです。あなたは指環さへ嵌めてゐません。しかしわたしはあなたの指に、あらゆる宝石《はうせき》を飾ることが出来ます。又あなたは薄ものや絹を肌につけたことはありますまい。しかしわたしは支那の絹や……」
 娘はうるささうに手を振りました。
娘 「わたくしの夫になる人はわたくしさへ愛せば好いのでございます。わたくしは貧しいみなし児でございすが、贅沢などをしたいとは存じません。」
商人 「それならばわたしの妻になつて下さい。わたしはあなたを愛してゐるのですから。」
娘 「それはまだわたくしにはわかりません。たとひあなたはさう仰有つても、嘘ではないかとも思ふのでございます。」
 商人は何か云はうとしました。が、娘は遮るやうに、口早《くちばや》に言葉《ことば》を続けました。
娘 「それはわたくしの顔かたちは愛して下さるかもわかりません。しかしわたくしの魂《たましひ》も愛して下さるでございませうか? もし愛して下さらなければ、ほんたうにわたくしを愛して下さるとは申せない筈でございます。」
商人 「マルシナアさん。わたしはあなたの魂も顔かたちと同じやうに愛してゐます。もし嘘だと思ふならば、わたしの家へ来て下さい。一|月《
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