りません。その内に若い商人が一人、静かに石段を下りて来ました。商人は乞食の姿を見ると、ふとあはれに思つたのでせう、小銭を一枚投げてやりました。
乞食 難有うございます。陛下!
商人は妙な顔をしました。陛下と云ふのはアラビアではカリフ(王)だけにつける尊称ですから。しかし商人は何も云はずに、乞食の前《まへ》
乞食 アラア(神)は陛下をお守り下さいませ
※[#ローマ数字3、1−13−23]
を通りすぎようとしました。すると乞食は追ひかけるやうに、もう一度かう繰返すのです。
乞食 難有うございます。陛下! アラアは陛下をお守り下さいませう。
商人は足を止めました。
商人 お前は勿体ないことを云ふぢやないか? わたしは唯の商人だよ。椰子の実を商ふハアヂと云ふものだよ。陛下などと呼ぶのはやめておくれ。
乞食 いえ 陛下は商人ではございません。陛下はカリフ・アブダル陛下でございます。
商人 わたしがあのアブダル陛下! ははあ、お前は気違ひだな。気違ひならば仕かたはない。が、愚図愚図してゐると、今度はアラアと間違へられさうだ。
商人は苦《にが》い顔をしたなり、さつさと又行きすぎさうにしました。しかし乞食は骨張つた手に商人の裾を捉へながら、剛情になほ云ひ続けました。
乞食 陛下! お隠しになつてはいけません。陛下は聡明のおん名の高いアブダル陛下でございます。或時は商人におなりになり、又或時は駱駝追ひにおなりになり、政治の善悪を御覧になると云ふアブダル陛下でございます。どうか御本名をお明し下さい。いや、お明し下さらないでも、どうかこの指環をお受けとり下さい。
乞食は茫然とした商人に指環を一つ渡しました。それは大きいダイアモンドを嵌めた、美しい金《きん》の指環なのです。
乞食 陛下は聡明のおん名の高いアブダル陛下でございます。しかし悪人の毒害《どくがい》だけはお見破りになることは出来ますまい。ところがその指環のダイアモンドは毒薬の気を感じさへすれば、忽ちまつ黒に変つてしまひます。ですからどうかこの後は始終その指環をお嵌め下さい。さうすればたとひ御家来に悪人が大勢居りましても、毒害におあひになることはございません。
呆気にとられた商人は唯乞食と指環とを見比べてゐるばかりです。
乞食 その指環は唯の指環ではございません。或ヂン(魔神)の宝《たから》にしてゐた魔法の指環でございま
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