三つのなぜ
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)林檎《りんご》は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|坐《すわ》っていた
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(例)[#ここから2字下げ]
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一 なぜファウストは悪魔に出会ったか?
ファウストは神に仕えていた。従って林檎《りんご》はこういう彼にはいつも「智慧《ちえ》の果」それ自身だった。彼は林檎を見る度に地上楽園を思い出したり、アダムやイヴを思い出したりしていた。
しかし或雪上りの午後、ファウストは林檎を見ているうちに一枚の油画を思い出した。それはどこかの大伽藍《だいがらん》にあった、色彩の水々しい油画だった。従って林檎はこの時以来、彼には昔の「智慧の果」の外にも近代の「静物」に変り出した。
ファウストは敬虔《けいけん》の念のためか、一度も林檎を食ったことはなかった。が或嵐の烈《はげ》しい夜、ふと腹の減ったのを感じ、一つの林檎を焼いて食うことにした。林檎は又この時以来、彼には食物《くいもの》にも変り出した。従って彼は林檎を見る度に、モオゼの十戒を思い出したり、油の絵具の調合を考えたり、胃袋の鳴るのを感じたりしていた。
最後に或薄ら寒い朝、ファウストは林檎を見ているうちに突然林檎も商人には商品であることを発見した。現に又それは十二売れば、銀一枚になるのに違いなかった。林檎はもちろんこの時以来、彼には金銭にも変り出した。
或どんより曇った午後、ファウストはひとり薄暗い書斎に林檎のことを考えていた。林檎とは一体何であるか?――それは彼には昔のように手軽には解けない問題だった。彼は机に向ったまま、いつかこの謎《なぞ》を口にしていた。
「林檎とは一体何であるか?」
すると、か細い黒犬が一匹、どこからか書斎へはいって来た。のみならずその犬は身震いをすると、忽《たちま》ち一人の騎士に変り、丁寧にファウストにお時宜《じぎ》をした。――
なぜファウストは悪魔に出会ったか?――それは前に書いた通りである。しかし悪魔に出会ったことはファウストの悲劇の五幕目ではない。或寒さの厳しい夕、ファウストは騎士になった悪魔と一しょに林檎の問題を論じながら、人通りの多い街を歩いて行った。すると痩《や》せ細った子供が一人、顔中涙に濡《ぬ》らしたまま
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