貧しい母親の手をひっぱっていた。
「あの林檎を買っておくれよう!」
悪魔はちょっと足を休め、ファウストにこの子供を指し示した。
「あの林檎を御覧なさい。あれは拷問《ごうもん》の道具ですよ。」
ファウストの悲劇はこういう言葉にやっと五幕目の幕を挙げはじめたのである。
二 なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?
ソロモンは生涯にたった一度シバの女王に会っただけだった。それは何もシバの女王が遠い国にいたためではなかった。タルシシの船や、ヒラムの船は三年に一度金銀や象牙《ぞうげ》や猿や孔雀《くじゃく》を運んで来た。が、ソロモンの使者の駱駝《らくだ》はエルサレムを囲んだ丘陵や沙漠《さばく》を一度もシバの国へ向ったことはなかった。
ソロモンはきょうも宮殿の奥にたった一人|坐《すわ》っていた。ソロモンの心は寂しかった。モアブ人、アンモニ人、エドミ人、シドン人、ヘテ人|等《とう》の妃《きさき》たちも彼の心を慰めなかった。彼は生涯に一度会ったシバの女王のことを考えていた。
シバの女王は美人ではなかった。のみならず彼よりも年をとっていた。しかし珍しい才女だった。ソロモンはかの女と問答をするたびに彼の心の飛躍するのを感じた。それはどういう魔術師と星占いの秘密を論じ合う時でも感じたことのない喜びだった。彼は二度でも三度でも、――或は一生の間でもあの威厳のあるシバの女王と話していたいのに違いなかった。
けれどもソロモンは同時に又シバの女王を恐れていた。それはかの女に会っている間は彼の智慧《ちえ》を失うからだった。少くとも彼の誇っていたものは彼の智慧かかの女の智慧か見分けのつかなくなるためだった。ソロモンはモアブ人、アンモニ人、エドミ人、シドン人、ヘテ人等の妃たちを蓄えていた。が、彼女等は何といっても彼の精神的奴隷だった。ソロモンは彼女等を愛撫《あいぶ》する時でも、ひそかに彼女等を軽蔑《けいべつ》していた。しかしシバの女王だけは時には反って彼自身を彼女の奴隷にしかねなかった。
ソロモンは彼女の奴隷になることを恐れていたのに違いなかった。しかし又一面には喜んでいたのにも違いなかった。この矛盾はいつもソロモンには名状の出来ぬ苦痛だった。彼は純金の獅子《しし》を立てた、大きい象牙の玉座の上に度々太い息を洩《も》らした。その息は又何かの拍子に一篇の抒情詩に変る
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