こともあった。
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わが愛する者の男の子等の中にあるは
林の樹の中に林檎《りんご》のあるがごとし。
…………………………………………
その我上に翻したる旗は愛なりき。
請ふ、なんぢら乾葡萄《ほしぶだう》をもてわが力を補へ。
林檎をもて我に力をつけよ。
我は愛によりて疾《や》みわづらふ。
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 或日の暮、ソロモンは宮殿の露台にのぼり、はるかに西の方を眺めやった。シバの女王の住んでいる国はもちろん見えないのに違いなかった。それは何かソロモンに安心に近い心もちを与えた。しかし又同時にその心もちは悲しみに近いものも与えたのだった。
 すると突然幻は誰《たれ》も見たことのない獣を一匹、入り日の光の中に現じ出した。獣は獅子に似て翼を拡《ひろ》げ、頭を二つ具《そな》えていた。しかもその頭の一つはシバの女王の頭であり、もう一つは彼自身の頭だった。頭は二つとも噛《か》み合いながら、不思議にも涙を流していた。幻は暫《しばら》く漂っていた後、大風の吹き渡る音と一しょに忽《たちま》ち又空中へ消えてしまった。そのあとには唯《ただ》かがやかしい、銀の鎖に似た雲が一列、斜めにたなびいているだけだった。
 ソロモンは幻の消えた後もじっと露台に佇《たたず》んでいた。幻の意味は明かだった。たといそれはソロモン以外の誰にもわからないものだったにもせよ。
 エルサレムの夜も更けた後、まだ年の若いソロモンは大勢の妃たちや家来たちと一しょに葡萄の酒を飲み交していた。彼の用いる杯や皿はいずれも純金を用いたものだった。しかしソロモンはふだんのように笑ったり話したりする気はなかった。唯きょうまで知らなかった、妙に息苦しい感慨の漲《みなぎ》って来るのを感じただけだった。
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番紅花《サフラン》の紅《くれなゐ》なるを咎《とが》むる勿《なか》れ。
桂枝《けいし》の匂《にほ》へるを咎むる勿れ。
されど我は悲しいかな。
番紅花は余りに紅なり。
桂枝は余りに匂ひ高し。
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 ソロモンはこう歌いながら、大きい竪琴《たてこと》を掻《か》き鳴《な》らした。のみならず絶えず涙を流した。彼の歌は彼に似げない激越の調べを漲らせていた。妃たちや家来たちはいずれも顔を見合せたりした。が、誰もソロモンにこの歌の意味を尋ねるものはなかった。ソロモンはやっと歌い終る
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