かし》を見出すが為である。かかる場合聴き手を勤むるものは、無智の老嫗に若《し》くものはあるまい」と。まことに一理ある説である。白居易《はくきよい》などが老嫗に自作の詩を読み聴《き》かせたと云ふのも、同じやうな心があつたのかも知れぬ。しかし自分がバトラアの説を面白しとするのは、啻《ただ》に一理あるが故のみではない。この説はバトラアのやうに創作の経験がある人でないと、道破されさうもない説だからである。成程《なるほど》世のつねの学者や批評家にも、モリエルの喜劇はわかるかも知れぬ。が、それだけでは立ちどころに、バトラアの説が吐《は》けるものではない。こんな消息《せうそく》に通じるには、おのれの中《うち》にモリエルその人を感じてゐなければ駄目《だめ》である。其処《そこ》が自分には難有《ありがた》い気がする。ロダンの手記なぞが尊いのも、かう云ふ所が多い故だ。二千里外に故人の面《おもて》を見ようと思つたら、どうしても自《みづか》ら苦まねばならぬ。(十月十九日)

     今夜

 今夜は心が平かである。机の前にあぐらをかきながら、湯に溶《と》かしたブロチンを啜《すす》つてゐれば、泰平《たいへい》の
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