凡兆《ぼんてう》の付け方、未《いまだ》しきやうなり。されどこの芭蕉の句は、なかなか世間|並《なみ》の才人が筋斗《きんと》百回した所が、付けられさうもないには違ひなし。
たつた十七字の活殺なれど、芭蕉《ばせを》の自由自在には恐れ入つてしまふ。西洋の詩人の詩などは、日本人故わからぬせゐか、これ程えらいと思つた事なし。まづ「成程《なるほど》」と云ふ位な感心に過ぎず。されば芭蕉のえらさなども、いくら説明してやつた所が、西洋人にはわかるかどうか、疑問の中《うち》の疑問なり。(七月十一日)
蜻蛉
蜻蛉《とんぼ》が木の枝にとまつて居《ゐ》るのを見る。羽根《はね》が四《よ》枚|平《たひら》に並んでゐない。前の二枚が三十度位あがつてゐる。風が吹いて来たら、その羽根で調子を取つてゐた。木の枝は動けども、蜻蛉は去らず。その儘悠々と動いて居る。猶《なほ》よく見ると、風の吹く強弱につれて、前の羽根の角度が可成《かなり》いろいろ変る。色の薄い赤蜻蛉。木の枝は枯枝。見たのは崖《がけ》の上なり。(八月十八日青根温泉にて)
子供
子供の時分の事を書きたる小説はいろいろあり。されど子供が感じた通りに書いたものは少し。大抵《たいてい》は大人《おとな》が子供の時を回顧して書いたと云ふ調子なり。その点では James Joyce が新機軸を出したと云ふべし。
ジヨイスの A Portrait of the Aritist as a Young Man は、如何《いか》にも子供が感じた通りに書いたと云ふ風なり。或は少し感じた通りに書き候《さふらふ》と云ふ気味があるかも知れず。されど珍品は珍品なり。こんな文章を書く人は外《ほか》に一人《ひとり》もあるまい。読んで好《い》い事をしたりと思ふ。(八月二十日)
十千万堂日録
十千万堂日録《とちまんだうにちろく》一月二十五日の記に、紅葉《こうえふ》が諸弟子《しよでし》と芝蘭簿《しらんぼ》の記入を試む条《くだり》あり。風葉《ふうえふ》は「身長今|一寸《いつすん》」を希望とし、春葉《しゆんえふ》は「四十迄生きん事」を希望とし、紅葉は「欧洲大陸にマアブルの句碑を立つ」を希望とす。更に又春葉は書籍に西遊記《さいいうき》を挙げ、風葉は「あらゆる字引類」を挙げ、紅葉はエンサイクロピデイアを挙ぐ。紅葉の好み、諸弟子《しよでし》に比ぶ
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