しにみ》に思ひを潜《ひそ》めた後《のち》でも、まだ会得《ゑとく》されない芭蕉の偉さが残つてゐるかも知れぬ位だ。ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作《むざうさ》に出来る事ではない。何事も芸道に志したからは、わかつた上にもわからうとする心がけが肝腎《かんじん》なやうだ。さもないと野狐《やこ》に堕してしまふ。偶《たまたま》電気と文芸所載の諸家の芭蕉論の中に、一二|孟浪杜撰《まんらんづざん》の説を見出した故に、不平のあまり書きとどめる。(十一月四日)
茶釜の蓋置き
今日《けふ》香取秀真《かとりほづま》氏の所にゐたら、茶釜の蓋《ふた》置きを三つ見せてくれた。小さな鉄の五徳《ごとく》のやうな物である。それが三つとも形が違ふ。違ふと云つた所が五徳同様故、三本の足と環《くわん》との釣合ひが、僅《わづか》に違つてゐるに過ぎない。が三つとも明らかに違ふ。見てゐれば見てゐる程|愈《いよいよ》違ひが甚しい。一つは荘重な心もちがする。一つは気の利《き》いた、洒脱《しやだつ》な物である。最後の一つは見るに堪へぬ。これ程簡単な物にもこれ程出来の違ひがあるかと思つたら、何事も芸道は恐しい気がした。一刀一拝の心もちが入るのは、仏《ほとけ》を刻む時ばかりでないと云ふ気がした。名人の仕事に思ひ比べれば、我々の書き残した物なぞは、悉《ことごとく》焚焼《ふんせう》しても惜しくはないと云ふ気がした。考へれば考へる程、愈《いよいよ》底の知れなくなるものは天下に芸道唯一つである。(十一月十日)
西洋人
茶碗《ちやわん》に茶を汲《く》んで出すと、茶を飲む前にその茶碗を見る。これは日本人には家常茶飯《かじやうさはん》に見る事だが、西洋人は滅多《めつた》にやらぬらしい。「結構な珈琲《コオヒイ》茶碗でございます」などと云ふ言葉は、西洋小説中にも見えぬやうである。それだけ日本人は芸術的なのかも知れぬ。或はそれだけ日本人の芸術は、細《こまか》い所にも手がとどくのかも知れぬ。リイチ氏なぞは立派《りつぱ》な陶工だが、皿や茶碗の仕事を見ると、裏には心がはひつて居らぬやうだ。これなぞも誰か注意さへすれば、何《なん》でもない事だとは云ふものの、其処《そこ》に争はれぬ西洋人を感ずるやうな心もちがする
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