。(十一月十日)
粗密と純雑
粗密《そみつ》は気質の差によるものである。粗を嫌ひ密を喜ぶのは、各《おのおの》好む所に従ふが好《よ》い。しかし粗密と純雑とは、自《おのづか》ら又|異《ことな》つてゐる。純雑は気質の差のみではない。更に人格の深処に根ざした、我々が一生の一大事である。純を尊び雑を卑《いやし》むのは、好悪《かうを》の如何《いかん》を超越した批判《ひはん》の沙汰《さた》に移らねばならぬ。今夜ふと菊池寛《きくちくわん》著す所の「極楽《ごくらく》」を出して見たが、菊池の小説の如きは粗とは云へても、終始雑俗の気には汚《けが》れてゐない。その証拠には作中の言葉が、善《よ》かれ悪《あ》しかれ満ちてゐる。唯一不二《ゆゐいちふじ》の言葉ばかり使つてないにしろ、白痴脅《こけおど》しの言葉は並んでゐない。あれはあれなりに出来上つた、他に類のない小説である。その点では一二の大家《たいか》先生の方が、遙《はるか》に雑俗の屎臭《ししう》を放つてゐると思ふ。粗密は前にも書いた通り、気質の違ひによるものである。だから鑑賞《かんしやう》の上から云へば、菊池の小説を好むと好まざるとは、何人《なにびと》も勝手に声明するが好《よ》い。しかしその芸術的価値の批判にも、粗なるが故に許し難いとするのは、好む所に偏《へん》するの譏《そしり》を免れぬ。同時に又創作の上から云へば、菊池の小説は菊池の気質と切り離し難い物である あの粗は決して等閑《なほざり》に書き流した結果然るのではない。その故に他の作家、殊に本来密を喜ぶ作家が、妄《みだり》に菊池の小説作法を踏襲《たふしふ》したら、勢《いきほひ》雑俗の病《へい》に陥《おちい》らざるを得ぬ。自分なぞは気質の上では、可也《かなり》菊池と隔《へだた》つてゐる。だから粗密の好みを云へば、一致しない点が多いかも知れぬ。が、純雑を論ずれば、必《かならず》しも我等は他人ではない。(十一月十二日)
[#地から1字上げ](大正九年)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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