民の心もちがする。かう云ふ時は小説なぞ書いてゐるのが、あさましいやうにも考へられる。そんな物を書くよりは、発句《ほつく》の稽古《けいこ》でもしてゐる方が、余程《よほど》養生になるではないか。発句より手習ひでもしてゐれば、もつと事が足りるかも知れぬ。いや、それより今かうして坐つてゐる心もちがその儘|難有《ありがた》いのを知らぬかなぞとも思ふ。おれは道書《だうしよ》も仏書《ぶつしよ》も読んだ事はない。が、どうもおれの心の底には、虚無の遺伝が潜んでゐるやうだ。西洋人がいくらもがいて見ても、結局はカトリツクの信仰に舞ひ戻るやうに、おれなぞはだんだん年をとると、隠棲《いんせい》か何かがしたくなるかも知れない。が、まだ今のやうに女に惚《ほ》れたり、金が欲しかつたりしてゐる内は、到底《たうてい》思ひ切つた真似は出来さうもないな。尤《もつと》も仙人《せんにん》と云ふ中には、祝鶏翁《しゆくけいをう》のやうな蓄産家[#「蓄産家」はママ]や郭璞《くわくぼく》のやうな漁色家《ぎよしよくか》がある。ああ云ふ仙人にはすぐになれさうだ。しかしどうせなる位なら、俗な仙人にはなりたくない。横文字の読める若隠居なぞは、猶更《なほさら》おれは真平《まつぴら》御免《ごめん》だ。そんなものよりは小説家の方が、まだしも道に近いやうな気がする。「尋仙未向碧山行《せんをたづねていまだむかはずへきざんのかう》住在人間足道情《すんでじんかんにあるもだうじやうたる》」かな。何《なん》だか今夜は半可通《はんかつう》な独り語《ごと》ばかり書いてしまつた。(十月二十日)

     夢

 世間の小説に出て来る夢は、どうも夢らしい心もちがせぬ。大抵《たいてい》は作為《さくゐ》が見え透くのである。「罪と罰」の中の困馬《こんば》の夢でも、やはりこの意味ではまことらしくない。夢のやうな話なぞと云ふが、夢を夢らしく書きこなす事は、好《い》い加減な現実の描写《べうしや》よりも、反《かへ》つて周到な用意が入る。何故《なぜ》かと云ふと夢中の出来事は、時間も空間も因果の関係も、現実とは全然違つてゐる。しかもその違ひ方が、到底《たうてい》型には嵌《は》める事が出来ぬ。だから実際見た夢でも写さない限り、夢らしい夢を書く事は、殆《ほとんど》不可能と云ふ外はない。所が小説中夢を道具に使ふ場合は、その道具の目的を果す必要上、よくよく都合《つがふ》の好
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