理《れう》るやら榾明《ほたあか》り」「初秋の心づかひや味噌醤油」「大事がる馬の尾づつや秋の風」「落栗《おちぐり》の座をさだむるや窪《くぼ》たまり」(初めて伊那に来て)「鬼灯《ほほづき》の色にゆるむや畑の縄《なは》」等、句も天保《てんぱう》前後の人にしては、思ひの外|好《よ》い。辞世は「何処《どこ》やらで鶴の声する霞かな」と云ふ由。憾《うら》むらくはその伝を詳《つまびらか》にせず。唯犬が嫌ひだつたさうだ。(九月十日)
百日紅
自分の知れる限りにては、葉の黄ばみそむる事、桜より早きはなし。槐《ゑんじゆ》これに次ぐ。その代り葉の落ち尽す事早きものは、百日紅《さるすべり》第一なり。桜や槐の梢《こずゑ》にはまだ疎《まばら》に残葉《ざんえふ》があつても、百日紅ばかりは坊主《ばうず》になつてゐる。梧桐《あをぎり》、芭蕉《ばせう》、柳など詩や句に揺落《えうらく》を歌はるるものは、みな思ひの外《ほか》散る事遅し。一体《いつたい》百日紅と云ふ木、春も新緑の色|洽《あまね》き頃にならば、容易に赤い芽を吹かず。長塚節《ながつかたかし》氏の歌に、「春雨《はるさめ》になまめきわたる庭ぬちにおろかなりける梧桐《あをぎり》の木か」とあれど、梧桐の芽を吹くは百日紅よりも早きやうなり。朝寝も好きなら宵寝も好きなる事、百日紅の如きは滅多《めつた》になし。自分は時々この木の横着なるに、人間同様腹を立てる事あり。(九月十三日)
大作
亀尾《かめを》君訳エツケルマンのゲエテ語録の中に、少壮の士の大作を成すは労多くして功少きを戒めてやまざる一段あり。蓋《けだし》ゲエテ自身フアウストなどを書かんとして、懲《こ》り懲《こ》りした故なるべし。思へばトルストイも「戦争と平和」や「アンナ・カレニナ」の大成に没頭せしかば、遂には全欧九十年代の芸術がわからずなりしならん。勿論他人の芸術がわからずとも、トルストイのやうな堂々たる自家《じか》の芸術を持つてゐれば、毛頭《まうとう》差支《さしつか》へはなきやうなり。されどわかるわからぬの上より云へば、芸術論を書きたるトルストイは、寧《むし》ろ憐むべき鑑賞眼の所有者たりし事は疑ひなし。まして我々|下根《げこん》の衆生《しゆじやう》は、好《い》い加減な野心に煽動《せんどう》されて、柄《がら》にもない大作にとりかかつたが最期《さいご》、虻蜂《あぶはち》とら
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