楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。
では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子《くんし》である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉《とら》えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗《しゃ》のように薄くなって、その向うにある雲の塊《かたまり》を、雲母《きらら》のように透かせている。
その後《あと》からは、彼の生まれた家の後《うしろ》にある、だだっ広い胡麻畑《ごまばたけ》が、辷《すべ》るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの影は一つもない。ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。これは空間を斜《ななめ》に横ぎって、吊《つ》り上げられたようにすっと消えた。
するとその
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