、汗が眼にはいると、しみるものだと云ふ事を、知つたのである。そこで、屠所《としよ》の羊の様な顔をして、神妙に眼をつぶりながら、ぢつと日に照りつけられてゐると、今度は、顔と云はず体と云はず、上になつてゐる部分の皮膚が、次第に或痛みを感じるやうになつて来た。皮膚の全面に、あらゆる方向へ動かうとする力が働いてゐるが、皮膚自身は、それに対して、毫《がう》も弾力を持つてゐない。それでどこもかしこも、ぴり/\する――とでも説明したら、よからうと思ふ痛みである。これは、汗所《あせどころ》の苦しさではない。劉は、少し蛮僧の治療をうけたのが、忌々《いまいま》しくなつて来た。
 しかし、これは、後になつて考へて見ると、まだ苦しくない方の部だつたのである。――そのうちに、喉《のど》が渇いて来た。劉も、曹孟徳か誰かが、前路に梅林ありと云つて、軍士の渇を医《い》したと云ふ事は知つてゐる。が、今の場合、いくら、梅子の甘酸を念頭に浮べて見ても、喉の渇く事は、少しも前と変りがない。頤を動かして見たり、舌を噛んで見たりしたが、口の中《うち》は依然として熱を持つてゐる。それも、枕もとの素焼の瓶がなかつたら、まだ幾分でも、我慢がし易かつたのに違ひない。所が、瓶の口からは、芬々《ふんぷん》たる酒香が、間断なく、劉の鼻を襲つて来る。しかも、気のせいか、その酒香が、一分毎に、益々高くなつて来るやうな心もちさへする。劉は、せめて、瓶だけでも見ようと思つて、眼をあけた。上眼を使つて見ると、瓶の口と、応揚《おうやう》にふくれた胴の半分ばかりが、眼にはいる。眼にはいるのは、それだけであるが、同時に、劉の想像には、その瓶のうす暗い内部に、黄金《きん》のやうな色をした酒のなみ/\と湛《たた》へてゐる容子《ようす》が、浮んで来た。思はず、ひびの出来た唇を、乾いた舌で舐めまはして見たが、唾の湧く気色《けしき》は、更にない。汗さへ今では、日に干されて、前のやうには、流れなくなつてしまつた。
 すると、はげしい眩暈《めまひ》が、つづいて、二三度起つた。頭痛はさつきから、しつきりなしにしてゐる。劉は、心の中《うち》で愈、蛮僧を怨めしく思つた。それから又何故、自分ともあるものが、あんな人間の口車に乗つて、こんな莫迦げた苦しみをするのだらうとも思つた。そのうちに、喉は、益々、渇いて来る。胸は妙にむかついて来る。もう我慢にも、ぢつとして
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