手紙
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)神経衰弱に善《よ》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|裂《さ》けかかった

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和二年六月七日)
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 僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは確かです。ここは旅行案内の広告によれば、神経衰弱に善《よ》いとか云うことです。そのせいか狂人も二人《ふたり》ばかりいます。一人《ひとり》は二十七八の女です。この女は何も口を利《き》かずに手風琴《てふうきん》ばかり弾《ひ》いています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二三度見かけたところではどこかちょっと混血児《あいのこ》じみた、輪廓《りんかく》の正しい顔をしています。もう一人の狂人は赤あかと額《ひたい》の禿《は》げ上った四十前後の男です。この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしているところを見ると、まだ狂人にならない前には何か意気な商売でもしていたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂《ふろ》の中でも一しょになります。K君は(これはここに滞在しているある大学の学生です。)この男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松《まつ》さんだね」と言ったものです。するとこの男は湯に浸《ひた》ったまま、子供のように赤い顔をしました。……
 K君は僕よりも十《とお》も若い人です。おまけに同じ宿のM子さん親子とかなり懇意にしている人です。M子さんは昔風に言えば、若衆顔《わかしゅがお》をしているとでも言うのでしょう。僕はM子さんの女学校時代にお下げに白い後《うし》ろ鉢巻《はちまき》をした上、薙刀《なぎなた》を習ったと云うことを聞き、定めしそれは牛若丸《うしわかまる》か何かに似ていたことだろうと思いました。もっともこのM子さん親子にはS君もやはり交際しています。S君はK君の友だちです。ただK君と違うのは、――僕はいつも小説などを読むと、二人《ふたり》の男性を差別するために一人《ひとり》を肥《ふと》った男にすれば、一人を瘠《や》せた男にするのをちょっと滑稽に思っています。それからまた一人を豪放《ごうほう》な男にすれば、一人を繊弱《せんじゃく》な男にするのにもやはり微笑《ほほえ》まずにはいられません。現にK君やS君は二人とも肥ってはいないのです。のみならず二人とも傷《きずつ》き易い神経を持って生まれているのです。が、K君はS君のように容易に弱みを見せません。実際また弱みを見せない修業《しゅうぎょう》を積もうともしているらしいのです。
 K君、S君、M子さん親子、――僕のつき合っているのはこれだけです。もっともつき合いと言ったにしろ、ただ一しょに散歩したり話したりするほかはありません。何しろここには温泉宿のほかに(それもたった二軒だけです。)カッフェ一つないのです。僕はこう云う寂しさを少しも不足には思っていません。しかしK君やS君は時々「我等の都会に対する郷愁」と云うものを感じています。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雑です。M子さん親子は貴族主義者です。従ってこう云う山の中に満足している訣《わけ》はありません。しかしその不満の中に満足を感じているのです。少くともかれこれ一月《ひとつき》だけの満足を感じているのです。
 僕の部屋は二階の隅にあります。僕はこの部屋の隅の机に向かい、午前だけはちゃんと勉強します。午後はトタン屋根に日が当るものですから、その烈しい火照《ほて》りだけでもとうてい本などは読めません。では何をするかと言えば、K君やS君に来て貰《もら》ってトランプや将棊《しょうぎ》に閑《ひま》をつぶしたり、組み立て細工《ざいく》の木枕《きまくら》をして(これはここの名産です。)昼寝をしたりするだけです。五六日前の午後のことです。僕はやはり木枕をしたまま、厚い渋紙の表紙をかけた「大久保武蔵鐙《おおくぼむさしあぶみ》」を読んでいました。するとそこへ襖《ふすま》をあけていきなり顔を出したのは下の部屋にいるM子さんです。僕はちょっと狼狽《ろうばい》し、莫迦莫迦《ばかばか》しいほどちゃんと坐り直しました。
「あら、皆さんはいらっしゃいませんの?」
「ええ。きょうは誰も、……まあ、どうかおはいりなさい。」
 M子さんは襖《ふすま》をあけたまま、僕の部屋の縁先《えんさき》に佇《たたず》みました。
「この部屋はお暑うございますわね。」
 逆光線になったM子さんの姿は耳だけ真紅《しんく》に透《す》いて見えます。僕は何か義務に近いものを感じ、M子さんの隣に立つことにしました。

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