あなたのお部屋は涼しいでしょう。」
「ええ、……でも手風琴《てふうきん》の音ばかりして。」
「ああ、あの気違いの部屋の向うでしたね。」
 僕等はこんな話をしながら、しばらく縁先に佇んでいました。西日《にしび》を受けたトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいています。そこへ庭の葉桜《はざくら》の枝から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいました。それは実に呆《あ》っ気ない死です。同時にまた実に世話の無い死です。――
「フライ鍋の中へでも落ちたようですね。」
「あたしは毛虫は大嫌《だいきら》い。」
「僕は手でもつまめますがね。」
「Sさんもそんなことを言っていらっしゃいました。」
 M子さんは真面目《まじめ》に僕の顔を見ました。
「S君もね。」
 僕の返事はM子さんには気乗りのしないように聞えたのでしょう。(僕は実はM子さんに、――と云うよりもM子さんと云う少女の心理に興味を持っていたのですが。)M子さんは幾分か拗《す》ねたようにこう言って手すりを離れました。
「じゃまた後《のち》ほど。」
 M子さんの帰って行った後《のち》、僕はまた木枕《きまくら》をしながら、「大久保武蔵鐙《おおくぼむさしあぶみ》」を読みつづけました。が、活字を追う間《あいだ》に時々あの毛虫のことを思い出しました。……
 僕の散歩に出かけるのはいつも大抵《たいてい》は夕飯前《ゆうめしまえ》です。こう云う時にはM子さん親子をはじめ、K君やS君も一しょに出るのです。そのまた散歩する場所もこの村の前後二三町の松林よりほかにはありません。これは毛虫の落ちるのを見た時よりもあるいは前の出来事でしょう。僕等はやはりはしゃぎながら、松林の中を歩いていました。僕等は?――もっともM子さんのお母さんだけは例外です。この奥さんは年よりは少くとも十《とお》ぐらいはふけて見えるのでしょう。僕はM子さんの一家のことは何も知らないものの一人です。しかしいつか読んだ新聞記事によれば、この奥さんはM子さんやM子さんの兄《にい》さんを産《う》んだ人ではないはずです。M子さんの兄さんはどこかの入学試験に落第したためにお父さんのピストルで自殺しました。僕の記憶を信ずるとすれば、新聞は皆兄さんの自殺したのもこの後妻《ごさい》に来た奥さんに責任のあるように書いていました。この奥さんの年をとっているのもあるいはそんなためではないでしょうか? 僕はまだ五十を越していないのに髪の白い奥さんを見る度にどうもそんなことを考えやすいのです。しかし僕等四人だけはとにかくしゃべりつづけにしゃべっていました。するとM子さんは何を見たのか、「あら、いや」と言ってK君の腕を抑えました。
「何です? 僕は蛇《へび》でも出たのかと思った。」
 それは実際何でもない。ただ乾いた山砂の上に細《こま》かい蟻《あり》が何匹も半死半生《はんしはんしょう》の赤蜂《あかはち》を引きずって行こうとしていたのです。赤蜂は仰《あおむ》けになったなり、時々|裂《さ》けかかった翅《はね》を鳴らし、蟻の群を逐《お》い払っています。が、蟻の群は蹴散《けち》らされたと思うと、すぐにまた赤蜂の翅や脚にすがりついてしまうのです。僕等はそこに立ちどまり、しばらくこの赤蜂のあがいているのを眺めていました。現にM子さんも始めに似合《にあ》わず、妙に真剣な顔をしたまま、やはりK君の側に立っていたのです。
「時々|剣《けん》を出しますわね。」
「蜂の剣は鉤《かぎ》のように曲っているものですね。」
 僕は誰も黙っているものですから、M子さんとこんな話をしていました。
「さあ、行《い》きましょう。あたしはこんなものを見るのは大嫌い。」
 M子さんのお母さんは誰よりも先きに歩き出しました。僕等も歩き出したのは勿論《もちろん》です。松林は路をあましたまま、ひっそりと高い草を伸ばしていました。僕等の話し声はこの松林の中に存外《ぞんがい》高い反響を起しました。殊にK君の笑い声は――K君はS君やM子さんにK君の妹さんのことを話していました。この田舎《いなか》にいる妹さんは女学校を卒業したばかりらしいのです。が、何でも夫になる人は煙草ものまなければ酒ものまない、品行方正の紳士でなければならないと言っていると云うことです。
「僕等は皆落第ですね?」
 S君は僕にこう言いました。が、僕の目にはいじらしいくらい、妙にてれ切った顔をしていました。
「煙草ものまなければ酒ものまないなんて、……つまり兄貴《あにき》へ当てつけているんだね。」
 K君も咄嗟《とっさ》につけ加えました。僕は善《い》い加減《かげん》な返事をしながら、だんだんこの散歩を苦にし出しました。従って突然M子さんの「もう帰りましょう」と言った時
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