にはほっとひと息ついたものです。M子さんは晴れ晴れした顔をしたまま、僕等の何《なん》とも言わないうちにくるりと足を返しました。が、温泉宿へ帰る途中はM子さんのお母さんとばかり話していました。僕等は勿論前と同じ松林の中を歩いて行ったのです。けれどもあの赤蜂はもうどこかへ行っていました。
それから半月《はんつき》ばかりたった後《のち》です。僕はどんより曇っているせいか、何をする気もなかったものですから、池のある庭へおりて行《ゆ》きました。するとM子さんのお母さんが一人《ひとり》船底椅子《ふなそこいす》に腰をおろし、東京の新聞を読んでいました。M子さんはきょうはK君やS君と温泉宿の後ろにあるY山へ登りに行ったはずです。この奥さんは僕を見ると、老眼鏡《ろうがんきょう》をはずして挨拶《あいさつ》しました。
「こちらの椅子《いす》をさし上げましょうか?」
「いえ、これで結構です。」
僕はちょうどそこにあった、古い籐椅子《とういす》にかけることにしました。
「昨晩はお休みになれなかったでしょう?」
「いいえ、……何かあったのですか?」
「あの気の違った男の方がいきなり廊下《ろうか》へ駈《か》け出したりなすったものですから。」
「そんなことがあったんですか?」
「ええ、どこかの銀行の取りつけ騒ぎを新聞でお読みなすったのが始まりなんですって。」
僕はあの松葉の入れ墨《ずみ》をした気違いの一生を想像しました。それから、――笑われても仕かたはありません、僕の弟の持っている株券《かぶけん》のことなどを思い出しました。
「Sさんなどはこぼしていらっしゃいましたよ。……」
M子さんのお母さんはいつか僕に婉曲《えんきょく》にS君のことを尋ね出しました。が、僕はどう云う返事にも「でしょう」だの「と思います」だのとつけ加えました。(僕はいつも一人《ひとり》の人をその人としてだけしか考えられません。家族とか財産とか社会的地位とか云うことには自然と冷淡になっているのです。おまけに一番悪いことはその人としてだけ考える時でもいつか僕自身に似ている点だけその人の中から引き出した上、勝手に好悪《こうお》を定《さだ》めているのです。)のみならずこの奥さんの気もちに、――S君の身もとを調べる気もちにある可笑《おか》しさを感じました。
「Sさんは神経質でいらっしゃるでしょう?」
「ええ、まあ神経質と云うのでしょう。」
「人ずれはちっともしていらっしゃいませんね。」
「それは何しろ坊ちゃんですから、……しかしもう一通《ひととお》りのことは心得ていると思いますが。」
僕はこう云う話の中にふと池の水際《みずぎわ》に沢蟹《さわがに》の這《は》っているのを見つけました。しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、――甲羅《こうら》の半ば砕けかかったもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論《そうごふじょろん》の中にあった蟹の話を思い出しました。クロポトキンの教えるところによれば、いつも蟹は怪我《けが》をした仲間を扶《たす》けて行ってやると云うことです。しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、それはいつも怪我《けが》をした仲間を食うためにやっていると云うことです。僕はだんだん石菖《せきしょう》のかげに二匹の沢蟹の隠れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話していました。が、いつか僕等の話に全然興味を失っていました。
「みんなの帰って来るのは夕がたでしょう?」
僕はこう言って立ち上りました。同時にまたM子さんのお母さんの顔にある表情を感じました。それはちょっとした驚きと一しょに何か本能的な憎しみを閃《ひらめ》かせている表情です。けれどもこの奥さんはすぐにもの静かに返事をしました。
「ええ、M子もそんなことを申しておりました。」
僕は僕の部屋へ帰って来ると、また縁先《えんさき》の手すりにつかまり、松林の上に盛り上ったY山の頂《いただき》を眺めました。山の頂は岩むらの上に薄い日の光をなすっています。僕はこう云う景色を見ながら、ふと僕等人間を憐みたい気もちを感じました。……
M子さん親子はS君と一しょに二三日|前《まえ》に東京へ帰りました。K君は何でもこの温泉宿へ妹さんの来るのを待ち合せた上、(それは多分僕の帰るのよりも一週間ばかり遅れるでしょう。)帰り仕度《したく》をするとか云うことです。僕はK君と二人だけになった時に幾分か寛《くつろ》ぎを感じました。もっともK君を劬《いたわ》りたい気もちの反《かえ》ってK君にこたえることを惧《おそ》れているのに違いありません。が、とにかくK君と一しょに比較的|気楽《きらく》に暮らしています。現にゆうべも風呂《ふろ》にはいりながら、一時間もセザアル・フランクを論じていました。
僕は今僕の部屋にこの
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