出すだらうと思つたからである。
――私は、西山憲一郎の母でございます。
婦人は、はつきりした声で、かう名乗つて、それから、叮嚀に、会釈を返した。
西山憲一郎と云へば、先生も覚えてゐる。やはりイブセンやストリントベルクの評論を書く生徒の一人で、専門は確か独法だつたかと思ふが、大学へはいつてからも、よく思想問題を提《ひつさ》げては、先生の許《もと》に出入した。それが、この春、腹膜炎に罹《かか》つて、大学病院へ入院したので、先生も序《ついで》ながら、一二度見舞ひに行つてやつた事がある。この婦人の顔を、どこかで見た事があるやうに思つたのも、偶然ではない。あの眉の濃い、元気のいい青年と、この婦人とは、日本の俗諺《ぞくげん》が、瓜二つと形容するやうに、驚く程、よく似てゐるのである。
――はあ、西山君の……さうですか。
先生は、独りで頷《うなづ》きながら、小さなテエブルの向うにある椅子を指した。
――どうか、あれへ。
婦人は、一応、突然の訪問を謝してから、又、叮嚀に礼をして、示された椅子に腰をかけた。その拍子に、袂から白いものを出したのは手巾《ハンケチ》であらう。先生は、それを見ると、
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