ながら、ちよいと又、鼻の先の岐阜提灯へ眼をやつた。誰もさうであらうが、待たせてある客より、待たせて置く主人の方が、かう云ふ場合は多く待遠しい。尤《もつと》も、日頃から謹厳な先生の事だから、これが、今日のやうな未知の女客に対してでなくとも、さうだと云ふ事は、わざわざ断る必要もないであらう。
 やがて、時刻をはかつて、先生は、応接室の扉をあけた。中へはいつて、おさへてゐたノツブを離すのと、椅子にかけてゐた四十恰好の婦人の立上つたのとが、殆《ほとんど》、同時である。客は、先生の判別を超越した、上品な鉄御納戸《てつおなんど》の単衣を着て、それを黒の絽《ろ》の羽織が、胸だけ細く剰《あま》した所に、帯止めの翡翠《ひすゐ》を、涼しい菱の形にうき上らせてゐる。髪が、丸髷《まるまげ》に結つてある事は、かう云ふ些事《さじ》に無頓着な先生にも、すぐわかつた。日本人に特有な、丸顔の、琥珀《こはく》色の皮膚をした、賢母らしい婦人である。先生は、一瞥して、この客の顔を、どこかで見た事があるやうに思つた。
 ――私が長谷川です。
 先生は、愛想よく、会釈《ゑしやく》した。かう云へば、逢つた事があるのなら、向うで云ひ
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