る。自分は、これだけの事を書きさへすれば、それが、如何に日の長い初夏の午後であるか、読者は容易に想像のつく事だらうと思ふ。しかし、かう云つたからと云つて、決して先生が無聊《ぶれう》に苦しんでゐると云ふ訳ではない。さう解釈しようとする人があるならば、それは自分の書く心もちを、わざとシニカルに曲解しようとするものである。――現在、ストリントベルクさへ、先生は、中途でやめなければならなかつた。何故と云へば、突然、訪客を告げる小間使が、先生の清興を妨げてしまつたからである。世間は、いくら日が長くても、先生を忙殺しなければ、止《や》まないらしい。……
先生は、本を置いて、今し方小間使が持つて来た、小さな名刺を一瞥《いちべつ》した。象牙紙に、細く西山篤子と書いてある。どうも、今までに逢つた事のある人では、ないらしい。交際の広い先生は、籐椅子を離れながら、それでも念の為に、一通り、頭の中の人名簿を繰つて見た。が、やはり、それらしい顔も、記憶に浮んで来ない。そこで、栞《しをり》代りに、名刺を本の間へはさんで、それを籐椅子の上に置くと、先生は、落着かない容子《ようす》で、銘仙の単衣《ひとへ》の前を直し
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