中に、梅幸《ばいかう》と云ふ名が、出て来た事がある。流石《さすが》、博覧強記を以て自負してゐる先生にも、この名ばかりは何の事だかわからない。そこで序《ついで》の時に、その学生を呼んで、訊《き》いて見た。
 ――君、梅幸と云ふのは何だね。
 ――梅幸――ですか。梅幸と云ひますのは、当時、丸の内の帝国劇場の座附俳優で、唯今、太閤記《たいかふき》十段目の操《みさを》を勤めて居る役者です。
 小倉《こくら》の袴をはいた学生は、慇懃《いんぎん》に、かう答へた。――だから、先生はストリントベルクが、簡勁《かんけい》な筆で論評を加へて居る各種の演出法に対しても、先生自身の意見と云ふものは、全然ない。唯、それが、先生の留学中、西洋で見た芝居の或るものを聯想させる範囲で、幾分か興味を持つ事が出来るだけである。云はば、中学の英語の教師が、イデイオムを探す為に、バアナアド・シヨウの脚本を読むと、別に大した相違はない。が、興味は、曲りなりにも、興味である。
 ヴエランダの天井からは、まだ灯をともさない岐阜提灯が下つてゐる。さうして、籐椅子の上では、長谷川謹造先生が、ストリントベルクのドラマトウルギイを読んでゐ
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