いますが、よもやこの洛中に、白昼さような変化《へんげ》の物が出没致す事はございますまい。」
すると若殿様はまた元のように、冴々《さえざえ》した御笑声《おわらいごえ》で、
「いや、何とも申されぬ。現に延喜《えんぎ》の御門《みかど》の御代《みよ》には、五条あたりの柿の梢に、七日《なのか》の間天狗が御仏《みほとけ》の形となって、白毫光《びゃくごうこう》を放ったとある。また仏眼寺《ぶつげんじ》の仁照阿闍梨《にんしょうあざり》を日毎に凌《りょう》じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ。」
「まあ、気味の悪い事を仰有《おっしゃ》います。」
御姫様は元より、二人の女房も、一度にこう云って、襲《かさね》の袖を合せましたが、若殿様は、愈御酒《いよいよごしゅ》機嫌の御顔を御和《おやわら》げになって、
「三千世界は元より広大無辺じゃ。僅ばかりの人間の智慧《ちえ》で、ないと申される事は一つもない。たとえばその沙門に化けた天狗が、この屋形の姫君に心を懸けて、ある夜ひそかに破風《はふ》の空から、爪だらけの手をさしのべようも、全くない事じゃとは誰も云えぬ。が、――」と仰有《おっしゃ》りながら、ほとんど色も御変りにならないばかり、恐ろしげに御寄りそいになった御姫様の袿《うちぎ》の背を、やさしく御さすりになりながら、
「が、まだその摩利信乃法師とやらは、幸《さいわ》い、姫君の姿さえ垣間見《かいまみ》た事もないであろう。まず、それまでは魔道の恋が、成就する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、怖がられずとも大丈夫じゃ。」と、まるで子供をあやすように、笑って御慰めなさいました。
二十一
それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りのある日の事、加茂川《かもがわ》の水が一段と眩《まばゆ》く日の光を照り返して、炎天の川筋には引き舟の往来《ゆきき》さえとぎれる頃でございます。ふだんから釣の好きな私の甥は、五条の橋の下へ参りまして、河原蓬《かわらよもぎ》の中に腰を下しながら、ここばかりは涼風《すずかぜ》の通うのを幸と、水嵩《みかさ》の減った川に糸を下して、頻《しきり》に鮠《はえ》を釣って居りました。すると丁度頭の上の欄干で、どうも聞いた事のあるような話し声が致しますから、何気なく上を眺めますと、そこにはあの平太夫《へいだゆう》が高扇《たかおうぎ》を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩利信乃法師《まりしのほうし》と一しょに、余念なく何事か話して居《お》るではございませんか。
それを見ますと私の甥は、以前|油小路《あぶらのこうじ》の辻で見かけた、摩利信乃法師の不思議な振舞がふと心に浮びました。そう云えばあの時も、どうやら二人の間には、曰《いわ》くがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄まして居りますと、向うは人通りもほとんど途絶えた、日盛りの寂しさに心を許したのでございましょう。私の甥の居《お》る事なぞには、更に気のつく容子《ようす》もなく、思いもよらない、大それた事を話し合って居《お》るのでございます。
「あなた様がこの摩利の教を御拡《おひろ》めになっていらっしゃろうなどとは、この広い洛中で誰一人存じて居《お》るものはございますまい。私《わたくし》でさえあなた様が御自分でそう仰有《おっしゃ》るまでは、どこかで御見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えて見れば、もっともな次第でございます。いつぞやの春の月夜に桜人《さくらびと》の曲を御謡いになった、あの御年若なあなた様と、ただ今こうして炎天に裸で御歩きになっていらっしゃる、慮外ながら天狗のような、見るのも凄じいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打伏《うちふし》の巫子《みこ》に聞いて見ても、わからないのに相違ございません。」
こう平太夫《へいだゆう》が口軽く、扇の音と一しょに申しますと、摩利信乃法師はまるでまた、どこの殿様かと疑われる、鷹揚《おうよう》な言《ことば》つきで、
「わしもその方に会ったのは何よりも満足じゃ。いつぞや油小路《あぶらのこうじ》の道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前でも、ちらと見かけた事があったが、その方は側目《わきめ》もふらず、文をつけた橘の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋形の方へ歩いて参った。」
「さようでございますか。それはまた年甲斐もなく、失礼な事を致したものでございます。」
平太夫はあの朝の事を思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いの好《よ》い扇の音が、再びはたはたと致しますと、
「しかしこうして今日《こんにち》御眼にかかれたのは、全く清水寺《きよみずでら》の観世音菩薩の御利益《ごりやく》ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏《しんぶつ》の名は申すまい。不肖《ふしょう》ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利《まり》の教を布《し》こうと致す沙門の身じゃ。」
二十二
急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師《まりしのほうし》が言《ことば》を挟みましたが、存外|平太夫《へいだゆう》は恐れ入った気色《けしき》もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄《おいぼ》れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度《おちど》ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前《おまえ》では、二度と神仏の御名《みな》は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺《おやじ》も、余り信心気《しんじんぎ》などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御《ご》無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう。」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子《ようす》とは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、頷《うなず》いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言《ことば》を機会《しお》に、
「さてその姫君についてじゃが、予は聊《いささ》か密々に御意《ぎょい》得たい仔細《しさい》がある。」と、云って、一段とまた声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか。」
するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂闊《うかつ》な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露《みあらわ》されないものでもございません。そこでやはり河原蓬《かわらよもぎ》の中を流れて行く水の面《おもて》を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばって居りました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥《おい》には、体中の筋骨《すじぼね》が妙にむず痒《がゆ》くなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知っては居《お》る。――」
やがてまた摩利信乃法師は、相不変《あいかわらず》もの静かな声で、独り言のように言《ことば》を継《つ》ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意《ぎょい》得たいと申すのではない。予の業欲《ごうよく》に憧るる心は、一度唐土《ひとたびもろこし》にさすらって、紅毛碧眼の胡僧《こそう》の口から、天上皇帝の御教《みおしえ》を聴聞《ちょうもん》すると共に、滅びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地《あめつち》を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏《ほとけ》と云う天魔外道《てんまげどう》の類《たぐい》を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香花《こうげ》を供えられる。かくてはやがて命終《めいしゅう》の期《ご》に臨んで、永劫《えいごう》消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻大城《あびたいじょう》の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜《ゆうべ》も。――」
こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠って来た口をしばらくの間とざしました。
二十三
「昨晩《ゆうべ》、何かあったのでございますか。」
ほど経て平太夫《へいだゆう》が、心配そうに、こう相手の言《ことば》を促しますと、摩利信乃法師《まりしのほうし》はふと我に返ったように、また元の静な声で、一言《ひとこと》毎に間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔細はない。が、予は昨夜《ゆうべ》もあの菰《こも》だれの中で、独りうとうとと眠って居《お》ると、柳の五つ衣《ぎぬ》を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。ただ、現《うつつ》と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧と煙《けぶ》った中に、黄金《こがね》の釵子《さいし》が怪しげな光を放って居っただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気色《けしき》はない。と思えば紅《くれない》の袴の裾に、何やら蠢《うごめ》いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居《お》れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有っただけでは解《げ》せませんが、一体何が居ったのでございます。」
この時は平太夫も、思わず知らず沙門《しゃもん》の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなって居りました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水子《みずご》ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢《うごめ》いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻《しきり》に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏《とり》が啼いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた。」
摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤《つぐ》んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中|鉤《はり》にかかった鮠《はえ》も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔《ようま》じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業《ごう》を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化《きょうげ》を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁《ちょう》と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水《きよみず》の阪の下で、辻冠者《つじかんじゃ》ばらと刃傷《にんじょう》を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング