そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私《わたし》が想《おもい》を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情《ふぜい》を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦《こが》していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好《いたずらず》きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵《こしら》えて、折からの藤《ふじ》の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌《あわて》て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師《あまほうし》の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召《おぼしめ》さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息《ためいき》をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想《おもい》のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度|五月雨《さみだれ》の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘《おおかさ》をかざしながら、ひそかに二条|西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参りますと、御門《ごもん》は堅く鎖《とざ》してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色《けしき》はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来《ゆきき》も稀な築土路《ついじみち》には、ただ、蛙《かわず》の声が聞えるばかり、雨は益《ますます》降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩《くら》むと云う情ない次第でございます。
それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫《へいだゆう》と申します私《わたくし》くらいの老侍《おいざむらい》が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯《いたずら》好きの若殿原から、細々《こまごま》と御消息で、鴉《からす》の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。
八
こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状《ごぎょうじょう》を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事《そらごと》をさし加えよう道理はございません。その頃|洛中《らくちゅう》で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫《ながむし》までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後《あと》の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門《なかみかど》の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫《へいだゆう》を頭《かしら》にして、御召使の男女《なんにょ》が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方《かた》と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨《いこん》で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩《やから》も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿《おな》くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆|跡方《あとかた》のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝《ひとづて》に承《うけたま》わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反《かえ》って誰よりも、素気《すげ》なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥《おい》に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫《へいだゆう》が、なぜか堀川の御屋形のものを仇《かたき》のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日《はるび》が※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《にお》っている築地《ついじ》の上から白髪頭《しらがあたま》を露《あらわ》して、檜皮《ひわだ》の狩衣《かりぎぬ》の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人《ひるぬすびと》か。盗人とあれば容赦《ようしゃ》はせぬ。一足でも門内にはいったが最期《さいご》、平太夫が太刀《たち》にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚《わめ》きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰《にんじょうざた》にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞《まり》を礫《つぶて》代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣《おつかわ》しになりました。さればこそ、日頃も仰有《おっしゃ》る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業《わざ》じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。
九
丁度その頃の事でございます。洛中《らくちゅう》に一人の異形《いぎょう》な沙門《しゃもん》が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利《まり》の教と申すものを説き弘《ひろ》め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方《かた》もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦《しんたん》から天狗《てんぐ》が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿《そめどの》の御后《おきさき》に鬼が憑《つ》いたなどと申します通り、この沙門の事を譬《たと》えて云ったのでございます。
そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中《ひるなか》だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑《しんせんえん》の外を通りかかりますと、あすこの築土《ついじ》を前にして、揉烏帽子《もみえぼし》やら、立烏帽子《たてえぼし》やら、あるいはまたもの見高い市女笠《いちめがさ》やらが、数《かず》にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部《わらべ》も交って、皆|一塊《ひとかたまり》になりながら、罵《ののし》り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神《おおかみ》に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊《うかつ》な近江商人《おうみあきゅうど》が、魚盗人《うおぬすびと》に荷でも攫《さら》われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々《ぎょうぎょう》しいので、何気《なにげ》なく後《うしろ》からそっと覗《のぞ》きこんで見ますと、思いもよらずその真中《まんなか》には、乞食《こつじき》のような姿をした沙門が、何か頻《しきり》にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩《にょぼさつ》の画像《えすがた》を掲げた旗竿を片手につき立てて、佇《たたず》んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい面《つら》がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣《ころも》でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸《くび》にかけた十文字の怪しげな黄金《こがね》の護符《ごふ》と申し、元より世の常の法師《ほうし》ではございますまい。それが、私の覗《のぞ》きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿《ちらえいじゅ》の眷属《けんぞく》が、鳶《とび》の翼を法衣《ころも》の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。
するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶《かじ》か何かが、素早く童部《わらべ》の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐《ぬか》したな。」と、噛みつくように喚きながら、斜《はす》に相手の面《おもて》を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門《しゃもん》は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩《にょぼさつ》の画像《えすがた》を落花の風に飜《ひるがえ》して、
「たとい今生《こんじょう》では、いかなる栄華《えいが》を極めようとも、天上皇帝の御教《みおしえ》に悖《もと》るものは、一旦|命終《めいしゅう》の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄に堕《お》ち、不断の業火《ごうか》に皮肉を焼かれて、尽未来《じんみらい》まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の遺《のこ》された、摩利信乃法師《まりしのほうし》に笞《しもと》を当つるものは、命終の時とも申さず、明日《あす》が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩《びゃくらい》の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶《かじ》まで、しばらくはただ、竹馬を戟《ほこ》にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。
十
が、それはほんの僅の間《ま》で、鍛冶《かじ》はまた竹馬《たけうま》をとり直しますと、
「まだ雑言《ぞうごん》をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕《けんまく》で罵りながら、矢庭《やにわ》に沙門《しゃもん》へとびかかりました。
元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面《おもて》を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦《や》けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫《みみずばれ》の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃《はら》ったと思うが早いか、いきなり大地《だいち》にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。
これに辟易《へきえき》した一同は、思わず逃腰《にげごし》になったのでございましょう。揉烏帽子《もみえぼし》も立《たて》烏帽子も意気地なく後《うしろ》を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病《てんかんや》みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事に、偽《いつわ》りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者《おうどうもの》を、目に見えぬ剣《つるぎ》で打たせ給うた。まだしも頭《かしら》が微塵に砕けて、都大路《みやこおおじ》に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも
前へ
次へ
全10ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング