んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中|鉤《はり》にかかった鮠《はえ》も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
 その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔《ようま》じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業《ごう》を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化《きょうげ》を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
 それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁《ちょう》と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水《きよみず》の阪の下で、辻冠者《つじかんじゃ》ばらと刃傷《にんじょう》を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延
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