の観世音菩薩の御利益《ごりやく》ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏《しんぶつ》の名は申すまい。不肖《ふしょう》ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利《まり》の教を布《し》こうと致す沙門の身じゃ。」

        二十二

 急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師《まりしのほうし》が言《ことば》を挟みましたが、存外|平太夫《へいだゆう》は恐れ入った気色《けしき》もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄《おいぼ》れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度《おちど》ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前《おまえ》では、二度と神仏の御名《みな》は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺《おやじ》も、余り信心気《しんじんぎ》などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御《ご》無事で
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