忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。
しかしその御文は恙《つつが》なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々《しもじも》には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討《やみう》ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御《ご》気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得《ごえとく》になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交《かわ》せになった後、とうとうある小雨《こさめ》の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院《にしのとういん》の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我《が》が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別|雑言《ぞうごん》などを申す勢いはなかったそうでございます。
十八
その後《ご》若殿様はほとんど夜毎に西洞院《にし
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