のでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜《ななめ》に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字《くじ》を切りながら、何か咒文《じゅもん》のようなものを口の内に繰返して、※[#「均−土」、第3水準1−14−75]々《そうそう》歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門《なかみかど》と云うような語《ことば》が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目《わきめ》もふらず悄々《しおしお》と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては
前へ
次へ
全99ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング