どと云う御渾名《おんあだな》こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、そのほかには何一つ、人口に膾炙《かいしゃ》するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。

        六

 その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門《なかみかど》の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々《しげしげ》御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私《わたくし》どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々《はればれ》と御笑いになって、
「爺よ。天《あめ》が下《した》は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業《わざ》じゃ。思えば狐《きつね》の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落《しゃらく》としてこう仰有《おっしゃ》います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧《れんぼざんまい》に耽って御出でになりました。
 しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事で
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