もの眼の前へは、恐ろしい幻が現れたのでございます。ああ、あの恐しい幻は、どうして私などの口の先で、御話し申す事が出来ましょう。もし出来たと致しましても、それは恐らく麒麟《きりん》の代りに、馬を指《さ》して見せると大した違いはございますまい。が、出来ないながら申上げますと、最初あの護符が空へあがった拍子に、私は河原の闇が、突然摩利信乃法師の後だけ、裂け飛んだように思いました。するとその闇の破れた所には、数限りもない焔《ほのお》の馬や焔の車が、竜蛇のような怪しい姿と一しょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私共の頭上をさして落ちかかるかと思うばかり、天に溢れてありありと浮び上ったのでございます。と思うとまた、その中に旗のようなものや、剣《つるぎ》のようなものも、何千何百となく燦《きらめ》いて、そこからまるで大風《おおかぜ》の海のような、凄じいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸《わ》き返って参りました。それを後に背負いながら、やはり薄色の袿《うちぎ》を肩にかけて、十文字の護符をかざしたまま、厳《おごそか》に立っているあの沙門《しゃもん》の異様な姿は、全くどこかの大天狗が、地獄の底から魔軍を率いて、この河原のただ中へ天下《あまくだ》ったようだとでも申しましょうか。――
私どもは余りの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭《かしら》を抱えて右左へ、一たまりもなくひれ伏してしまいました。するとその頭《かしら》の空に、摩利信乃法師の罵る声が、またいかめしく響き渡って、
「命が惜しくば、その方どもも天上皇帝に御詫《おわび》申せ。さもない時は立ちどころに、護法百万の聖衆《しょうじゅ》たちは、その方どもの臭骸《しゅうがい》を段々壊《だんだんえ》に致そうぞよ。」と、雷《いかずち》のように呼《よば》わります。その恐ろしさ、物凄さと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずには居《お》られません。そこで私もとうとう我慢が出来なくなって、合掌した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南無《なむ》天上皇帝」と称《とな》えました。
二十八
それから先の事は、申し上げるのさえ、御恥しいくらいでございますから、なる可く手短に御話し致しましょう。私共が天上皇帝を祈りましたせいか、あの恐ろしい幻は間もなく消えてしまいましたが、その代り太刀音を聞いて起て来た非人《ひにん》たちが、四方から私どもをとり囲みました。それがまた、大抵《たいてい》は摩利《まり》の教の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸に、いざと云えば手ごめにでもし兼ねない勢いで、口々に凄じく罵り騒ぎながら、まるで穽《わな》にかかった狐《きつね》でも見るように、男も女も折り重なって、憎さげに顔を覗きこもうとするのでございます。その何人とも知れない白癩《びゃくらい》どもの面《おもて》が、新に燃え上った芥火《あくたび》の光を浴びて、星月夜《ほしづくよ》も見えないほど、前後左右から頸《うなじ》をのばした気味悪さは、到底この世のものとは思われません。
が、その中でもさすがに摩利信乃法師《まりしのほうし》は、徐《おもむろ》に哮《たけ》り立つ非人たちを宥《なだ》めますと、例の怪しげな微笑を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝の御威徳の難有《ありがた》い本末《もとすえ》を懇々と説いて聴かせました。が、その間も私の気になって仕方がなかったのは、あの沙門の肩にかかっている、美しい薄色の袿《うちぎ》の事でございます。元より薄色の袿と申しましても、世間に類《たぐい》の多いものではございますが、もしやあれは中御門《なかみかど》の姫君の御召し物ではございますまいか。万一そうだと致しましたら、姫君はもういつの間にか、あの沙門《しゃもん》と御対面になったのでございましょうし、あるいはその上に摩利《まり》の教も、御帰依なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申します事も、耳にはいらないくらいでございましたが、うっかりそんな素振《そぶり》を見せましては、またどんな恐ろしい目に遇わされないものでもございますまい。しかも摩利信乃法師の容子《ようす》では、私どももただ、神仏を蔑《なみ》されるのが口惜《くちお》しいので、闇討をしかけたものだと思ったのでございましょう。幸い、堀川の若殿様に御仕え申している事なぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿《うちぎ》にも、なるべく眼をやらないようにして、河原の砂の上に坐ったまま、わざと神妙にあの沙門の申す事を聴いて居《お》るらしく装いました。
するとそれが先方には、いかにも殊勝《しゅしょう》げに見えたのでございましょう。一通り談義めいた事を説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和《や
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